ものの有様
これは世界認識におけるParadigm変換と言える筈で、Smartphoneの画面を見てゐるといふことは同一世界を同一の位置で共有してしまふ、つまり、それは世界を情報化してしまふといふ身も蓋もない行為なのであるが、ありとあらゆるものを情報化して仮想現実にその厖大な情報を盛り込むことで、Smartphoneの画面上の世界は、世界自体の様相を一変させ、世界もまた、単なる情報として現存在は受容するのである。そして、情報化された世界と現実の世界を繋ぎ、現実の世界に対して上書きすることで、現実世界は情報として溶け出し、Chaosが出現するのである。
何故Chaosが出現するのかといふと、そもそも世界が情報としてのみ強調されてしまふと世界は、厖大な情報へと溶解をし始め、それはChaosでしかなく、しかし、それでは現実世界との接点がなくなるので、それを食い止めるために厖大な情報を呑み込める仮想現実の出現が必須であり、一度仮想現実が出現してしまへば、仮想現実は手を変え品を変えてその厖大な情報を丸呑みし、情報が多いほど、仮想現実は現実世界を上書きした時に使ひ勝手がよく、優れた仮想現実として万人に喜ばれるのである。そもそも仮想現実に情報過多といふことはあり得ず、仮想現実にどれほどの量の情報が盛り込めるかを競ひながら、仮想現実も数多ある中から現存在は取捨選択してゐるのが現状で、万人が必要に応じて膨大な量の情報の中からその都度適量の情報を取り出して仮想現実と付き合ってゐるのである。適量の情報量を確保するにはそれはそれは厖大な情報量が仮想現実に盛り込まれてゐなければならず、Big(ビッグ) data(データ)を持ち出すまでもなく、仮想現実は誰もがAccess(アクセス)するもので、仮想現実は貪婪な怪物の如く厖大な情報を時時刻刻と呑み込み更新しながら、仮想現実と現実世界を共に上書きしてゐるのである。
そのやうに時時刻刻と最新の情報で上書きされる仮想現実と現実世界の相関関係は、断然、仮想現実が現実世界に対して優位を保持してゐて、世界は既に仮想現実に一見すると従属してゐるやうに見えるのである。厖大な情報を時時刻刻と丸呑みする仮想現実は、個人が世界を情報へと翻訳したものを丸呑みするばかりでなく、不特定多数が世界を情報として翻訳したその厖大な情報を丸呑みし、共有することで利便性は飛躍的に上がるのは当然のことであり、情報を共有することで、弧存在たる吾は、これまでそれら己の知り得ることはある程度限られてゐて、これまでは例へば印刷物などで情報を得、そのやうな時代では情報を持ち歩くことが出来ない故に、現存在の記憶力がものを言ふ時代であったのであるが、携帯端末を手にした現存在は、極論を言へば、記憶力が途轍もなく劣ってゐても全て仮想現実にAccess出来れば情報は五万と得られ、その厖大な情報を取捨選択して己の欲する情報のみに辿り着ければ、それでよく、また、試されるのはその情報の真贋を見極める能力なのである。尤も、仮想現実よりも現実世界の方が翻訳出来ずにある情報は厖大にあり、現実世界に比べれば仮想現実は現存在が世界で必要な情報に翻訳できたものを切り取ったものに過ぎぬのであるが、それ故に仮想現実が咀嚼せずに丸呑みする情報は全て正しいと言ふことはなく、むしろ現存在を欺く情報に満ち満ちてゐると言っても過言ではないのである。
それでは情報の真贋を見極める能力はどのやうにして身に付ければ良いのか、これが大問題なのである。仮想現実では、現存在は服を着るやうに情報を纏ひ、その中には悪意に満ちた現存在は必ずゐる筈で、情報は凶器になり、厖大な情報が、情報に対して無防備な弧存在たる現存在は、厖大な情報の洪水に丸呑みにされて、情報に溺れることになるのである。さうならないためには、現存在は、情報に対して仮想ではなく、現実において大いなる実害がある武器と同様のものとして扱はなければならないのが実情で、情報を丸呑みする仮想現実は、これは言わずもがなであるが、現実世界と必ずずれが生じてゐて、善意も悪意も丸ごと丸呑みするために、時時刻刻と更新、上書きされる仮想現実には、一歩踏み間違へればそれは凶器となる地雷の如くに仮想現実に彼方此方に埋め込まれてあるのである。
かうなると現存在は、現実世界との間に仮想現実に距離を開けて、決して上書きする愚は行はなくなり、厖大な情報を腑分け出来る術を見出す道を探り、その結果がAI、つまり、人工知能の登場を渇仰するのである。つまり、仮想現実の厖大な情報を個人の能力では取捨選択する能力は持ち得ず、人工知能の助けを借りて現存在に必要な情報を予め人工知能に取捨選択して貰はないと、既に仮想現実の情報量は呆然とするほどに厖大なのである。
そこで世界を情報化することは、果たして可能なのかといふ疑問が湧いてくるのである。現に情報化されてゐるのだがら可能と肯ふべき筈なのだが、しかし、重要なのは情報化出来ずに世界内に存在する《もの》の有様なのではないだらうか。《もの》が情報化されるのはその位置情報と簡単な何のためにあるのかといふことと現存在による印象の堆積でしかなく、《もの》そのものは決して言葉で語り果せぬ存在である。つまり、仮想現実に入力されてゐる厖大な情報は《もの》の上っ面の情報でしかなく、《もの》そのものを問ふた本来であれば、世界が成り立たせてゐるその本源の情報は仮想現実には皆無と言っていいかもしれぬ。誰の胸にも去来するであらう「私は何《もの》?」といふ問ひを発する以上、それは「世界とは一体何なのか?」といふ問ひを含有してゐるのである。それは、つまり、《もの》とは何なのかといふことに収斂するもので、《もの》を問ふた先達は数多ゐて、有名処ではプラトンのイデア論からカントの「物自体」、ハイデガーの例へば「道具存在」等等挙げれば、切りがないが、《もの》を問ふことは、即ち、己を問ふことなのである。
それでは仮想現実、厖大な情報で溢れてゐる仮想現実に「吾」は吾として存在してゐるのかといへば、決してそんなことはなく、唯単に、「吾」は仮想現実の情報を媒介にしてAccessしてゐるだけで、本音を言へば、「吾」は、仮想現実なんてちっとも信じてをらず、現実が穴凹だらけなのを、携帯端末が現実に開いた穴を塞ぐことで、目を奪はれるのであるが、それはTelevision(テレビ)でも同じことで、「吾」は絶えず現実世界に開いてゐる穴凹に興味津津なのである。そして、穴凹が開いてゐない仮想現実に、つまり、何処も情報で埋め尽くされた仮想現実を現実世界に開いてゐる数多の穴凹にあてがふには打って付けなのである。それは情報が厖大ならば厖大なほどよく、仮想現実を眺めてゐることで、現実からTrip(トリップ)出来るかのやうな幻想を齎す仮想現実は、極論すれば麻薬と同質の《もの》なのである。