ものの有様
ものの有様
積 緋露雪著
ものの有様
ものと言ふのは存在するだけで既に引力か斥力を発してゐて、そのいづれにも属さぬものは、ものとして認識されることはなく、あってなきが如くに意識の俎上にさへ上らぬ何ものと言ふ疑問符がつくものとして非在するものなのだ。しかし、その意識の俎上にも上らぬものの非在と言ふ存在の在り方が吾の存在に何らかの影響を与へてゐるから、存在とは一筋縄ではいかぬもので、意識上に上らぬからといって、無意識などに消えることはなく、非在と言ふ形で存在するそれらはそれらのものの存在を以てして人知れず恐れ怯えてゐるものなのである。
私はそもそも無意識と言ふ考へには否定的で、無意識などは夢幻の類ひに違ひなく、無意識は現存在の有様において論理から食み出た非論理的なる狂気を覆ひ隠すためにでっち上げざるを得なかった前時代的な唾棄されるべき産物の残滓に思へるのである。それと言ふのも無意識によって闇に葬られしものたちの呻き声を一度でも聞いてしまったならば、もう無意識などと言ふ言葉でお茶を濁すことは不可能な筈で、それでも尚、無意識と言ふ言葉を使へる輩は思考停止してゐるだけに過ぎぬといへる。
非在と言ふ形で存在するものは、いつ何時意識上に上ってきて不意に虚を衝く形で襲ってくるかも知れず、存在は、つまり、此の世の森羅万象は、絶えず存在に怯えてゐて、意識上に上る上らぬの選別を意識的に行ってはをらずとも、何時も緊張を強ひられ、亀の如く、将又、蝸牛の如くに、何かあると直ぐに頭を引っ込める準備をしながらびくびくと此の世に存在するものなのである。
さうしなければ、存在の存続は絶えず危険と隣り合はせで、例へば不慮の事故で絶命することも日常茶飯事で、つまり、いとも呆気なく死んでしまふ憂き目に遭ふ可能性に晒されてゐて、いつ何時でも死んでも何ら不思議ではないといへる。
存在を語る時、存在と言ふ言葉の周りをぐるぐると回る視野狭窄と言ふ悪癖がある私は、ちょっぴりとそれを避け、いなすようにしてみると、例へば時空間と言ふものは、普段は全く意識することはなく過ごさうと思へば、何の不自由なく過ごせてしまふのであるが、私にとっては時空間は絶えず意識せざるを得ぬもので、少しでも気を抜けば、時空間に押し潰される威圧感を感じる故に、或る種の強迫観念の如く、私にのし掛かるのである。その見苦しさといったならば、何とも此の世の時空間の中に存在することのとんでもない居心地の悪さは言ふに及ばず、そもそも私の此の世における存在に何か大いなる問題があるとしか思へぬ後ろめたさが絶えず意識され、此の時空間の中で生きることの罪悪感は、それはそれは醜いものなのである。つまり、私に限って言へば、時空間は何時も意識せざるを得ぬもので、その存在が、唯、存在するだけで私を苦しめるのである。
そんな私を囲繞する時空間にあっぷあっぷで何故か溺れてゐるやうな感覚に何時も襲はれてゐる錯覚に置かれてゐる私は、私を囲繞する時空間を或ひは呪ってゐるのかも知れぬ。
その時空間ときたら真綿で首を絞めるやうに私をきりきりと締め付ける。そんな時空間に存在するものは、端的に言って私には恐怖でしかないのだ。私を囲繞する時空間と共にそれら森羅万象は、
――へっへっへっ。
と私を嗤ひながら重たい重たい重たい十字架を私に背負はせるから始末が悪いのだ。何故に私に重たい重たい重たい十字架を背負はせるのかと言へば、それは私が此の世に存在すると言ふ一言に尽きる。私が此の世に存在するといふことは他とは同時に同じ場所には存在出来ない弧時空に投企されてゐるのであるが、それは目も当てられぬ悲惨な様相で、と言ふのも、弧時空に投企された私といふ何ものにも縋り付けぬ存在は、私の二本の足で直立をし、振り子の原理で歩くのであるが、それはGPS機能によって絶えず確認出来ることで、GPS機能で示された私の居場所には徹頭徹尾私のみがゐて、他物は其処には存在しないのだ。
確かにSmartphone(スマートフォン)などの端末のTouchpanel(タッチパネル)をTap(タップ)することで、私は現実を拡張し現実を上書きする仮想現実を以てして、私の存在を意識する。つまり、私はその能力を拡張されることで、何かこれまで現実のみに対峙してきた私は、例へばSmartphoneの画面に平面で映し出される仮想現実に、私の存在を敢へて嵌め込み、奇妙な、否、これまでになかった存在様式の仕方を強ひられる。
仮令それが3Dの仮想現実だとしても、画面は徹頭徹尾平面であることが、それがIllusion(イリュージョン)の眷属に過ぎぬことを表はしてはゐるが、しかし、3Dの仮想現実に三次元時空間を平面上で認識してしまう脳と言ふ構造をした頭蓋内の闇たる五蘊場は、今の処、その目新しさに目眩み私の存在の唯一無二なことは忘失しつつある。仮想現実は、何ものも《同じ居場所》に存在せしめることを成し遂げてしまふ現実のChaos(カオス)を齎してゐるのだ。これは世界認識のParadigm(パラダイム)変換と言へるのかと問はれれば、さうに違ひないと言へるのかもしれぬが、例へば闇の中でSmartphoneの画面が結構明るく輝くその様は、異様でもあり、また、一方でとてもありふれた現実の風景でもあり、このTouchpanelが此の世に存在するのは最早欠くべからざるものとして現実に組み込まなければ、それは現実を語ったことにはならぬであらう。つまり、携帯端末の登場により、現実は拡張され続け、仮想現実が現実を上書きすることで途轍もなく平面的な時空間が四次元と言はれるこの現実の世界を二次元の世界へと縮退させたのである。
四次元を二次元に縮退させることで、現実の拡張を成し遂げた仮想現実は、その縮退にこそ現実の拡張にその秘訣が隠されてあるに違ひなく、といふのも、縮退によって二次元の平面世界が即座に四次元の仮想立体世界へとその有様を変化させることはお手のもので、その魔術の如き次元の操作はTouchpanelといふ平面上でやってのけてしまふことで、誰もがいとも簡単に仮想現実にのめり込んでしまふのである。
それがどういふことかといふと、視覚上のことだから、いとも簡単に騙されるのである。それは敢へて言へば騙し絵に騙されてしまふ視覚能力しか持ち得ぬことを逆手にとってのことなのである。五感で世界に対峙する、つまり、私の場合は、時空間によってきりきりと締め付けられるやうな存在の居心地の悪さを絶えず感じるといふ感覚が私の存在証明の一つの要因と言へ、Touchpanelに対峙する私は、其処に現はれる仮想現実が、私以外の数多の他者が全く同じ仮想現実の世界を見てゐる、つまり、私は他者と同じ場所に存在してゐる仮想上の立ち位置が現実に上書きされるのである。それはまさに魔術の如きもので、誰しもがTouchpanelを前にするとそれがどこにゐやうが同一の場所にあたかも存在してゐるといふ非現実的なことが現実として大手をふるって歩くのである。
ものの有様
積 緋露雪著
ものの有様
ものと言ふのは存在するだけで既に引力か斥力を発してゐて、そのいづれにも属さぬものは、ものとして認識されることはなく、あってなきが如くに意識の俎上にさへ上らぬ何ものと言ふ疑問符がつくものとして非在するものなのだ。しかし、その意識の俎上にも上らぬものの非在と言ふ存在の在り方が吾の存在に何らかの影響を与へてゐるから、存在とは一筋縄ではいかぬもので、意識上に上らぬからといって、無意識などに消えることはなく、非在と言ふ形で存在するそれらはそれらのものの存在を以てして人知れず恐れ怯えてゐるものなのである。
私はそもそも無意識と言ふ考へには否定的で、無意識などは夢幻の類ひに違ひなく、無意識は現存在の有様において論理から食み出た非論理的なる狂気を覆ひ隠すためにでっち上げざるを得なかった前時代的な唾棄されるべき産物の残滓に思へるのである。それと言ふのも無意識によって闇に葬られしものたちの呻き声を一度でも聞いてしまったならば、もう無意識などと言ふ言葉でお茶を濁すことは不可能な筈で、それでも尚、無意識と言ふ言葉を使へる輩は思考停止してゐるだけに過ぎぬといへる。
非在と言ふ形で存在するものは、いつ何時意識上に上ってきて不意に虚を衝く形で襲ってくるかも知れず、存在は、つまり、此の世の森羅万象は、絶えず存在に怯えてゐて、意識上に上る上らぬの選別を意識的に行ってはをらずとも、何時も緊張を強ひられ、亀の如く、将又、蝸牛の如くに、何かあると直ぐに頭を引っ込める準備をしながらびくびくと此の世に存在するものなのである。
さうしなければ、存在の存続は絶えず危険と隣り合はせで、例へば不慮の事故で絶命することも日常茶飯事で、つまり、いとも呆気なく死んでしまふ憂き目に遭ふ可能性に晒されてゐて、いつ何時でも死んでも何ら不思議ではないといへる。
存在を語る時、存在と言ふ言葉の周りをぐるぐると回る視野狭窄と言ふ悪癖がある私は、ちょっぴりとそれを避け、いなすようにしてみると、例へば時空間と言ふものは、普段は全く意識することはなく過ごさうと思へば、何の不自由なく過ごせてしまふのであるが、私にとっては時空間は絶えず意識せざるを得ぬもので、少しでも気を抜けば、時空間に押し潰される威圧感を感じる故に、或る種の強迫観念の如く、私にのし掛かるのである。その見苦しさといったならば、何とも此の世の時空間の中に存在することのとんでもない居心地の悪さは言ふに及ばず、そもそも私の此の世における存在に何か大いなる問題があるとしか思へぬ後ろめたさが絶えず意識され、此の時空間の中で生きることの罪悪感は、それはそれは醜いものなのである。つまり、私に限って言へば、時空間は何時も意識せざるを得ぬもので、その存在が、唯、存在するだけで私を苦しめるのである。
そんな私を囲繞する時空間にあっぷあっぷで何故か溺れてゐるやうな感覚に何時も襲はれてゐる錯覚に置かれてゐる私は、私を囲繞する時空間を或ひは呪ってゐるのかも知れぬ。
その時空間ときたら真綿で首を絞めるやうに私をきりきりと締め付ける。そんな時空間に存在するものは、端的に言って私には恐怖でしかないのだ。私を囲繞する時空間と共にそれら森羅万象は、
――へっへっへっ。
と私を嗤ひながら重たい重たい重たい十字架を私に背負はせるから始末が悪いのだ。何故に私に重たい重たい重たい十字架を背負はせるのかと言へば、それは私が此の世に存在すると言ふ一言に尽きる。私が此の世に存在するといふことは他とは同時に同じ場所には存在出来ない弧時空に投企されてゐるのであるが、それは目も当てられぬ悲惨な様相で、と言ふのも、弧時空に投企された私といふ何ものにも縋り付けぬ存在は、私の二本の足で直立をし、振り子の原理で歩くのであるが、それはGPS機能によって絶えず確認出来ることで、GPS機能で示された私の居場所には徹頭徹尾私のみがゐて、他物は其処には存在しないのだ。
確かにSmartphone(スマートフォン)などの端末のTouchpanel(タッチパネル)をTap(タップ)することで、私は現実を拡張し現実を上書きする仮想現実を以てして、私の存在を意識する。つまり、私はその能力を拡張されることで、何かこれまで現実のみに対峙してきた私は、例へばSmartphoneの画面に平面で映し出される仮想現実に、私の存在を敢へて嵌め込み、奇妙な、否、これまでになかった存在様式の仕方を強ひられる。
仮令それが3Dの仮想現実だとしても、画面は徹頭徹尾平面であることが、それがIllusion(イリュージョン)の眷属に過ぎぬことを表はしてはゐるが、しかし、3Dの仮想現実に三次元時空間を平面上で認識してしまう脳と言ふ構造をした頭蓋内の闇たる五蘊場は、今の処、その目新しさに目眩み私の存在の唯一無二なことは忘失しつつある。仮想現実は、何ものも《同じ居場所》に存在せしめることを成し遂げてしまふ現実のChaos(カオス)を齎してゐるのだ。これは世界認識のParadigm(パラダイム)変換と言へるのかと問はれれば、さうに違ひないと言へるのかもしれぬが、例へば闇の中でSmartphoneの画面が結構明るく輝くその様は、異様でもあり、また、一方でとてもありふれた現実の風景でもあり、このTouchpanelが此の世に存在するのは最早欠くべからざるものとして現実に組み込まなければ、それは現実を語ったことにはならぬであらう。つまり、携帯端末の登場により、現実は拡張され続け、仮想現実が現実を上書きすることで途轍もなく平面的な時空間が四次元と言はれるこの現実の世界を二次元の世界へと縮退させたのである。
四次元を二次元に縮退させることで、現実の拡張を成し遂げた仮想現実は、その縮退にこそ現実の拡張にその秘訣が隠されてあるに違ひなく、といふのも、縮退によって二次元の平面世界が即座に四次元の仮想立体世界へとその有様を変化させることはお手のもので、その魔術の如き次元の操作はTouchpanelといふ平面上でやってのけてしまふことで、誰もがいとも簡単に仮想現実にのめり込んでしまふのである。
それがどういふことかといふと、視覚上のことだから、いとも簡単に騙されるのである。それは敢へて言へば騙し絵に騙されてしまふ視覚能力しか持ち得ぬことを逆手にとってのことなのである。五感で世界に対峙する、つまり、私の場合は、時空間によってきりきりと締め付けられるやうな存在の居心地の悪さを絶えず感じるといふ感覚が私の存在証明の一つの要因と言へ、Touchpanelに対峙する私は、其処に現はれる仮想現実が、私以外の数多の他者が全く同じ仮想現実の世界を見てゐる、つまり、私は他者と同じ場所に存在してゐる仮想上の立ち位置が現実に上書きされるのである。それはまさに魔術の如きもので、誰しもがTouchpanelを前にするとそれがどこにゐやうが同一の場所にあたかも存在してゐるといふ非現実的なことが現実として大手をふるって歩くのである。