審問官第一章「喫茶店迄」
私は雪がその手で蛾を追い払ふのを制止し、暫くその蛾を凝視するのであつた。その蛾は地味な配色ながらも誠に誠に愛らしい姿をしてゐた。私は無類の虫好きなので、虫であれば何でも凝視せずにはゐられなかつたのであつた。私は虫こそ此の世の《存在》物の中でも傑作の部類に入る《存在》物と看做してゐたのである。卵、幼虫、蛹、そして成虫と完全変態を行ふ蛾は、正に此の世が生んだ傑作の一つに違ひなかつた。この二つの複眼で、蛾の方も私を凝視してゐたに違ひなかつた。さて、蛾にとつて私はどんな姿をした《存在》物として見えてゐるのであらうか。蛍光燈の明かりの下なので、多分、渦巻く奇怪な《存在》物として蛾には私が見えてゐたのかもしれなかつたが、それが解る術は全くなかつたのである。蛾の複眼は自然の眼の一つに違ひなかつた。吾吾が自然を見るやうに自然もまたその眼をかつと見開いて吾吾を凝視してゐるといふ感覚が、幼少時から私に付き纏ひ、決して離れる事のない感覚として感じられて仕方がなかつたのであつた。
私は蛾の複眼を凝視するのであつた。
暫くすると私はどうしても蛾に手を差し出して蛾を掌に乗せたくて仕様がなくなつたので、そつと手を差し出すと、蛾は安心しきつてゐたのか全く逃げる素振りを見せずにすんなりと私の掌の上に乗つたのであつた。
――相当の虫好きなのね、うふつ。
と、雪が微笑みながら言つたので、私も軽く微笑んで頷いたのであつた。
それにしても掌の蛾は美しかつた。そして、その軽さと言つたらこれ以上はありやしない程、それは計算し尽くされた軽さに違ひなかつた。蛾を蔽つてゐる細い小さな毛は、気持ちが良い程繊細であつた。私は掌の蛾をまじまじと暫く眺めた後は、その古本屋の戸口へ向かつて歩き出し、蛾を外に放してやつたのである。
――本当に虫が好きなのね、うふつ。
と、雪が言つたので私は再び軽く微笑んで頷くのであつた。
若冲も、私が蛾を見たやうに鶏を始め森羅万象をまじまじとみてゐたのかもしれなかつた。多分、穴の開く程凝視してゐたに違ひない。それぢやなきや、こんなべらぼうな絵なんか描きつこない筈である。
私は雪に「行かう」と合図を送り、眼前に拡げられたヴアン・ゴツホとブレイクと等伯と若冲の画集を片付け、その中でブレイクの画集をその古本屋で買つたのであつた。
その古本屋の戸口で待つてゐた雪の肩を私はぽんと叩くと、そのまま歩を進めたのであつた。
――あつ、待つて、もう。
と、雪は再びその左手で私の右手首を優しくだがしつかりと握つて、再び二人相並んで都会の雑踏の中へと歩き出したのであつた。相変はらず、柔らかい白色の光を帯びた満月は東の空に浮かんでゐた。月の出の頃のあの毒毒しい赤色はすつかり姿を消し、満月は柔和そのものであつた。
人いきれ。学生や会社帰りの会社員等に交じつて、私達もまたその人波の中に紛れ込んだのであつた。相変はらず雪との間には何の会話もなかつたが、それはそれで心地良いものであつた。
と、不意にまた一つ、私の視界の周縁に光雲が現れたのであつた。その光雲もまた私の視界の周縁をゆつくりと時計回りに巡り、不意に私の視界の中に消えたのであつた。当然ながら伏目で歩いてゐた私は不図面を上げ、満月にぢつと見入るのであつた。白色の淡い光を放つてゐる東の空の満月は相変はらず柔和で何やら私に微笑みかけてゐるやうであつた。
私は再び伏目となつて、暫くは人波の中を歩き続けたのであつた。さうかうするうちに目的の喫茶店の前に着いたのである。私は雪をその喫茶店の前に連れ出すと、徐にその喫茶店の扉を開け、皆が待つてゐる店内へと歩を踏み出したのであつた。
第一章完
[積緋露雪1]2016年11月29日
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作品名:審問官第一章「喫茶店迄」 作家名:積 緋露雪