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積 緋露雪
積 緋露雪
novelistID. 70534
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蟻地獄~積 緋露雪作品集 Ⅰ

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 といふ反論じみた嘲笑が再び私の胸奥で発せられるのであるが、《吾》の事を自発的にそれは《吾》であると嘯くしかない《吾》は、尤も一度も自発的に《吾》=《吾》を受け入れた事はなく、何時も受動的に《吾》なる《もの》を《吾》として受け入れるのである。それは諸行無常の世界=内に《存在》する《もの》の当然の有様で、世界=内に《存在》する以上、つまり、絶えず《吾》を裏切り続ける形で《吾》の現前に現はれる《現実》を前にして、《吾》はあり得た筈の《吾》を絶えず断念しながら《吾》を尚も保持しつつ、此の《吾》を容赦なく裏切り続けて已まない諸行無常の世界の中で世界に順応する外ないのである。そして、その《現実》での憤懣が《闇の吾》となって私の夢に現はれるに違ひないのである。
 そもそも《吾》とは《吾》に侮蔑されるやうに定められし《存在》なのであらうか? 例へば自己超克と言へば聞こえはいいが、詰まる所、その自己超克は絶えざる自己否定が暗黙の前提として含意されてゐるのであるが、《吾》として此の世に《存在》した《もの》が仮令それが何であれ此の世に《存在》しちまった以上、絶えざる自己否定は《理想の吾》へと近づくべく、つまり、《理想の吾》に漸近的にしか近づく術がない《吾》は、《理想の吾》を追ひ求めずにはゐられぬどうしやうもない欲求が、遂には《吾》の内奥で蠢く底無しの欲望と結び付いて、自己超克といふ名の下に、結局は《理想の吾》が厳然と君臨する故に《吾》が《吾》を滅ぼさずにはゐられぬまでに《吾》は《吾》を追ひ詰めずにはゐられぬ《もの》なのである。さうして自己超克を見事に成し遂げた《もの》のみ生き延びられるこの残酷極まりない自己超克といふ宿命を負ってゐる《吾》は、《吾》をこのやうにしか此の世に《存在》させない摂理を呪ふ事に成るのである。
ーー自同律の不快! 
 《吾》の存続する術を手探りし己の内奥をまさぐってゐた《吾》をかう言挙げした先達に埴谷雄高がゐるが、彼もまた、此の宇宙を悪意に満ちた何かしらの《もの》としてこの宇宙の摂理を呪ってゐるのである。
ーーぷふぃ。
 その嗤ひ声にもならぬ、それでゐてどうしても息が肺から吹き出て已まないその
ーーぷふぃ。
といふ嗤ひ声を埴谷雄高の畢生の作品「死靈(しれい)」の登場人物達は不意に発するのであるが、その
ーーぷふぃ。
といふ嗤ひ声は、既に《吾》といふ己の《存在》を呪ひ、また此の宇宙をも呪った末に嗤ふ事を忘失してしまった《吾》が、やっと此の世に噴き出せた、つまり、辛うじて嗤ひ声となって声を発せた《吾》の無惨な姿が其処には現はれてしまってゐるのである。その埴谷雄高の、
ーーぷふぃ。
 とは違って、
ーー《吾》だと、ぶはっはっはっはっ。
 と、《闇の夢》を見て眠りながら嗤ってゐた私は、その《闇の夢》に《吾》の無様な姿を見たと先に言ったが、私にとって闇は多分に見る者の状態によって様々に表情を変へる能面の如く作用してゐるに違ひないのである。
 例へば能面のその表情の多彩さは、見者たる己の内奥と呼応してその状態を忠実に能面の面が映すからであるが、私にとってその内奥を忠実に映すのは先にも述べたやうにそれは闇なのである。私は独りそんな闇を、
ーー影鏡存在。
 等と名付けて、瞼を閉ぢれば何時如何なる時でも眼前に拡がる闇と対峙しながら、果てしない自問自答の渦の中に呑み込まれ、最早其処から抜け出せぬやうになって久しいが、瞑目しながらの自問自答はひと度それに従事してしまふと已めようにも已められぬ或る種の自意識の阿片であるに違ひないのである。その瞑目し、瞼裡(まぶたり)に拡がる闇に己の内奥を映しながら自問自答の堂堂巡りを繰り返し、挙句の果てには問ひの大渦を巻く、その底無しの深淵にひと度嵌り込むと、私は、にたりと、多分他人が見ればいやらしいにたり顔をその顔に浮かべてゐるに違ひない事に最近気付いたのである。つまり、私は瞑目し瞼裡の闇と対峙してゐる時は、必ず嗤ってゐるのに最近になってやっと気付いたのである。そんな時である。眠りながら嗤ってゐる私を見出したのは。
ーー《吾》だと、ぶはっはっはっはっ。
 しかし、それにしても《闇》とは摩訶不思議で面妖なる《もの》である。何《もの》にも変容するかと思へば、眼前にはやはり瞼裡の《闇》のまま《存在》してゐて、相変はらず《闇》は《闇》以外の何《もの》でもないのである。尤も《闇》は多分に頭蓋内の《闇》、即ち《五蘊場》に鎮座する脳といふ構造をした《場》が作り出した或る種の幻影と思へなくもないのであり、それは光が干渉する《もの》なのでその結果どうしても発生してしまふ《闇》を認識するのに、つまり、光の濃淡を認識する仕方として《五蘊場》が《闇》を作り出した事は、これまた多分に《吾》たる《主体》の《存在》の有様に深く深く深く関はってゐるのは間違ひないのである。さうでなければ、私が夢で《闇の夢》なぞ見る事は不可能で、将又《闇の夢》に《吾》を見出してしまった無惨な《吾》を嗤へる《吾》が私の《五蘊場》に《存在》する事なぞ、これまた不可能なのである。そして、《異形の吾》と私が呼ぶ哲学的には「対自存在」に相当するその《異形の吾》たる《吾》は当然の帰結として《吾》に無数に《存在》する筈で、さうでなければ《吾》は独りの《吾》の統一体としての有様は不可解極まりない事態に陥り、それは例へば、独りの人間が細胞六十兆個程で成り立ち、しかしながらその六十兆の細胞は全てが《生》ではなく、多くの細胞は自死、即ちApoptosis(アポトーシス)の位相に今現在もある事が不可解極まりない事になってしまふのである。《生》とは、詰まる所、《生》と《死》が等しく《存在》する摩訶不思議な現象の一つに違ひないなのである[HS2]。
 それにしても夢において闇を形象するといふ曲芸、否、《インチキ》を堂々と成し遂げてしまって
ーー《吾》だと、ぶはっはっはっはっ。
と、自嘲の嵐の中で
ーーそれは至極当然だ。
といった態度で恰も泰然自若を装ひ嘯くその《吾》は、その実、闇そのものを訝しりながらも途轍もなく偏愛して已まないのも、これまた厳然とした事実として自覚してゐる何ともふてぶてしい私は、闇を《物自体》として仮初にも仮象してゐるのかもしれなかったのである。つまり、
ーー此の世の根本は闇である。
と、何かを達観した僧侶の如く己を偽装したいが為に私は、夢でも《闇の夢》を、つまり、《闇》の虜と化した何《もの》かに変化し果(おほ)せてしまって、それは、また、恰も木の葉隠れの術の如き忍法にも似た《私》の隠れ蓑になってゐる可能性が無くもないのであった。その証左に
ーー《吾》だと、ぶはっはっはっはっ。