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趣味が凌駕するバランス

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 ということが絵画である。
 ということからであった。
 そんな絵画であったが、もう一つの問題というのは、
「バランス感覚ではないか?」
 と考えたのだ。
 これは、例えば、
「空と海」
 あるいは、
「空と地上」
 というように、
「水平線」
 であったり、
「地平線」
 というものを見た時、
「その配分をうまく取れるか?」
 ということが重要なことではないだろうか?
「錯視」
 という言葉があるが、その代表的なものとして、
「サッチャー錯視」
 という言葉がある。
 これは、
「上下逆さまに見た時、そのバランス感覚であったり、上下での比率がいかに狂っているかということからきているともいえる錯覚」
 というものではないだろうか?
 そんな錯覚というものがどういうものなのかということを考えると、
「それを追求してみたくなる」
 といえるだろう。
 それが、
「絵画」
 というものに興味を持ったということであり、実際に描いてみると、
「思ったよりも描けている」
 と感じたのだ。
 それは、
「小説を書けるようになった時、自分の中で、芸術的な何かが芽生えたのではないだろうか?」
 という思いであった。
 さすがに、最初から、
「水彩画」
 であったり、
「油絵」
 というものには、ハードルが高いということを感じたのか、
「鉛筆デッサンにしよう」
 と考えるようになったのであった。
 鉛筆デッサンであれば、
「執筆の合間の気分転換でできる」
 と感じたからであった。
「そうだ、もう一つの趣味がほしいと思った原因の一つが、この気分転換という気持ちだったのだ」
 ということであった。
 そして、もう一つ理由があることに、その時は気づいていなかった。

                 大団円

 もう一つの理由がなんであるかということであるが、まずは、
「小説の気分転換」
 というものが、前述の、
「能と狂言」
 というものとの組み合わせだということに気づかなかったというべきか、それとも、
「後からでも分かった」
 ということは、それだけ、自分が、
「芸術に勤しむ」
 ということに長けているとも考えられる。
 小説を書くということが、まずは、自分にとって大切なことであり、そして、絵画は。
「気分転換」
 と思っていたのだが、絵画をしている時に
「書こうと思ったきっかけ」
 ということで、
「錯視」
 というものがあることを思い出した。
「水平線や地平線を境にして、正面から見たものと、上下が反転した状態で見たものとでは、見え方が違う」
 ということであった。
 その違いというものが、
「バランス」
 というものではないか?
 と考えたことで、
「自分にとっての芸術というものがどういうものなのか?」
 ということに次第に気づくようになっていた。
 そもそも、
「人と関わりがないといけない」
 といっていた父親の発想に対しての、憤りが、
「今までの自分の人生を作ってきた」
 と思っている。
 それから、最近、
「解放されたのではないか?」
 と考えるようになったのだが、それは、
「二つ目の趣味ができたことからだ」
 ということであった。
 そして、この絵画という趣味ができたことで、何が変わったのかというと、
「たぶん、バランスというものが、備わってきたのではないか?」
 ということであった。
 確かに絵画というのは、
「描けば描くほどうまくなる」
 とも言われている。
 それだけ、
「備わっていなかったものが、備わってくる」
 ということになるからであろうか。
 それを考えると、
「やはり、バランスがいいことから考えられることではないだろうか?」
 ということであった。
 さらに、
「錯視」
 というものから、もう一つの特徴である、
「遠近感」
 というものも備わってくるということになるであろう。
 それを考えると、
「絵画というもの自体で、バランスが保たれる」
 ともいえるだろう。
 しかし、もう一つの考え方として、
「絵画と、小説」
 という、自分にとっての、
「二大巨頭」
 と言われるような趣味が、
「いかに自分の中でバランスを保つか?」
 ということになってくる。
 そしてこれによって得られたものが、
「精神的な余裕だ」
 といえるだろう。
 この余裕を持つことで、
「人に対しての不満や憤りというものが、少しずつではあるが、収まってくる」
 それを考えると、
「自分をしっかりと保つことができる趣味を持てたのだから、もう父親に対してのわだかまりなどというものがなくなってもいいだろう」
 という、
「他力本願的な発想」
 も出てくるのだ。
 確かに、
「他力本願」
 というものは、
「いいものではないだろう」
 といえるが、それでも、
「自分の心の中に、余裕というものが持てるのだとすれば、それはそれで一番いいことなのではないだろうか?」
 と考えるようになった。
 それが、今までの山崎の中での、
「わだかまり」
 であったり、
「不満」
 という分子を解消させられるものとなったのだ。
 しかも、それにより、
「人とのかかわり」
 というものが、必ずしも必要ではないということを、自分なりに納得できたことが一番大きかったということであろう。
 そのことをその時の山崎が分かっているわけはない。
「40歳になった今でも、それが分かっているとは言えないのだから」
 とさらに先を見る山崎であった。

                 (  完  )
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