夢幻空花(むげんくうげ)
闇尾超も吾を捉へることはハイゼンベルクの不確定性原理によるものと看做してゐて、これまた偶然にしては出来過ぎであるが、頭蓋内の闇を五蘊場と名付けてゐたとは、なんといふ巡り合はせだ。闇尾超は弛まず吾の捕獲を目論んでゐたのだらう。然し乍ら、それは悉く失敗に終はり、ハイゼンベルクの不確定性原理を持ち出し、反闇なる考へに思ひ至ったに違ひない。確かに私が吾を摑まへやうとすると、此方の目論見を見透かしてゐるかのやうに悉く失敗に帰す。これは闇尾超のいふ通りなのだ。五蘊場に存在するであらう吾なるものは、私は異形のものとして看做してゐる。闇尾超同様に私は敢へてそれを闇尾超とこれまた同じく異形の吾と名指してこの私とは似ても似つかぬGrotesqueなものとして或る意味異形の吾を見下すかのやうに看做してはゐるが、それは裏を返せば、異形の吾に畏怖を抱いてゐることに外ならず、尤も、私も異形の吾を見たことはないのだ。見たことがないものに異形の吾と名付けて悦に入ってゐるところもなくはないが、しかし、この全く見えぬ異形の吾は、磁石のS極N極ではないが、悉く私とは反発し、私と乖離してゐるのは間違ひない。闇尾超がいふ乖離性自己同一障害といふことはよく解るのだ。ハイゼンベルクの不確定性原理か。成程、異形の吾を追へば追ふほど、或る段階、闇尾超はそれを閾値と呼んでゐるが、それを超えるともう雲を掴むやうに茫漠として異形の吾の尻尾すら見つかる気すらせず、茫然自失するのである。吾を見失って茫然自失するとは変なものいひだが、五蘊場の何処かに風穴でも空いてゐるのか、渺渺たる時空間へと通ずるそれはひゅうひゅうと幽かな風音を立ててゐて、五蘊場にはその幽かな風音だけが響いてゐるのであった。そんなことばかりなのである。毎度、異形の吾を摑まへ損ねては茫漠たる、或ひは渺渺たる五蘊場の闇の中で、私はぽつねんと独り孤独に苛まれつつも、にやりと嗤ってはその孤独を噛み締めながら、私から逃げ果せた異形の吾のその狡猾さに舌を巻くのであった。それが、私と異形の吾との関係の全てである。
地獄は復活させねばならぬ
――浄土が天国といふものに取って代はって久しいが、再び浄土と地獄は復活させねばならぬ。特に寂れてしまった地獄は是非とも復活させねばならぬ。それは永劫といふ観念と深く関係してくるのであるが、地獄がなければ未来永劫といふ観念は羸弱(るいじゃく)なものに成り下がるのである。それは何故かといふと地獄こそが未来永劫といふ観念を支へる根本だからである。どうして根本になるのかといふと、地獄に堕ちたものは未来永劫意識を失ふことなく地獄の責め苦を受け続けねばならぬからである。地獄の責め苦を受けてゐる途中に意識を失ってしまったならば、それは最早苦悶ではなく無痛状態に終はってしまふからである。それでは責め苦にならぬだ。それ故に地獄に堕ちたものは未来永劫意識を失ふことなく、地獄の責め苦を受けねばならぬ。これの何処が永劫に繋がるのかといふと地獄が未来永劫存在するといふことで、現存在はやうやっと己を律し倫理的に現世を生きやうといふ自覚が芽生えるのである。刹那主義や相対主義などの悪魔の囁きに耳を貸さずに生きるには地獄が厳然と存在せねばならぬのだ。ただし、現代においては輪廻転生は許されず、地獄に堕ちたものは未来永劫地獄の責め苦を受け続けるのである。其処には救ひはない。地獄の服役期間などといふ生易しいものは存在せずに一度地獄に堕ちたならば、二度と這ひ上がれぬ形而上学的な世界として復活しなければならぬ。地獄の恐怖政治が罷り通る現世でなければ、享楽的な現世に胡座を舁いて「楽」を貪り喰らふ自堕落な存在に満ち溢れ、人間中心主義といふとんでもない世界が継続し、人間以外は絶滅して行くといふ死屍累累の山が堆く積み上げられるとっても窮屈な世界が展開する筈である。そんな現世では脱人間を声高に叫ぶ新興宗教が勃興し、再び宗教に振り回される絶望的な世界が巻き起こるに違ひない。さうならないためにも輪廻転生がなく未来永劫地獄に堕ちたものの復活は最早ないといふ救ひやうのない地獄の復活が望まれる。其処は奈落のまたその下に位置する新しい地獄で、この此の世への復活がぶち切れた地獄の再生は現世での現存在が「自由闊達」な生が保証される最低条件なのだ。何故自由闊達な生を保証する最低条件かといふと現代のこの島国での倫理の最後の砦は「他人に迷惑をかけぬ」といふことで、この倫理観の羸弱さは言わずもがなである。何故なら地獄がないことで、「誰でもよかった」といふ殺人が余りにも多く、それは他人に迷惑をかけぬといふことと表裏一体なのである。更にいへば猟奇的な殺戮もまた、余りにも多過ぎるのだ。死体損壊もまた、余りにも多いのだ。死者への冒瀆が過ぎるのだ。それを止めるのは復活のない未来永劫責め苦が続く地獄の再生が必要なのである。その地獄の恐怖政治が現世の再生の唯一の道のりである。
地獄の再生か。闇尾超らしいな。闇尾超の頭には魂の未来永劫の存続があるに違ひない。五蘊場に存在すると看做してゐる吾の永続に己の死後を託したのであらう。このNoteには確かに闇尾超の吾、或ひは魂は生きてゐてさうでなければかうして私の心を揺さぶりはしない。このNoteには言霊として闇尾超が存在してゐるのだ。そのために、闇尾超は過去には存在しなかった未来永劫地獄に堕ちたものは救はれない地獄の再生を己の永劫の存続の担保にしてゐるのだ。そこには早逝することに対しての闇尾超の忸怩たる思ひが如実に表はれてゐて、多分、闇尾超は死後、己は地獄にも浄土にも行かぬ未来永劫に彷徨へるものとしてこの地上に留まりたかったのかもしれぬ。地獄も魂の彷徨も浄土も全てが永劫といふ位相で見ればいづれもが断絶してゐて、闇尾超は何としてでも死後の此の世を未来永劫彷徨ひながら、宇宙顚覆の宿願を遂げたいのに違ひない。しかし、闇尾超よ、お前の宇宙顚覆といふ宿願に憎悪以外何があるといふのか。仮に宇宙顚覆に存在革命などといふ取って付けたやうな崇高な考へがあるのであれば、そもそもがインチキだ。埴谷雄高の言ではないが、「インチキをでっち上げる」といふことに血道を上げることにお前の魂の願ひはあるのか。泰然自若としたこの壮大無敵な宇宙をインチキを以てしてその存在根拠の足を掬はうとしてゐるのか。念じ続ければ或ひは宇宙が素っ転ぶとでも思ってゐるのか。全てが不合理だ。へっ、今思ひ出した。さういへば闇尾超は宇宙を認識するには不合理から始めなければならぬといってゐたっけ。闇尾超は全ては承知の上か。それでも尚、宇宙顚覆を企てなければならぬ根拠は何か。闇尾超にとってそもそも宇宙とは闇尾超といふ存在を闇尾超たらしめてしまふことに対する已むに已まれぬ不服従の証だったかもしれぬな。この不愉快を齎す宇宙こそが顚覆されるもので、宇宙への不服従を言挙げした闇尾超は森羅万象を代表して人身御供になったのだらう。さうでなければ、闇尾超のこと、己の死を受容できる筈はないではないか。無念を晴らすためにも闇尾超は未来永劫に亙って輪廻転生せぬ地獄の再生を目論んだに違ひない。
実念論私論
作品名:夢幻空花(むげんくうげ) 作家名:積 緋露雪