夢幻空花(むげんくうげ)
仮に闇尾超のいふ通り、光にではなく闇に遍く希望が鏤められてゐるとすると、闇の中で悪戦苦闘してゐる「私」は、希望の中で悪戦苦闘してゐることになる。それは唯、希望が見えてゐないだけで、希望は絶えず「私」にぴたっとくっ付いてゐて、闇へと手を伸ばせばすぐにでも希望に手が届くことになる。しかし、現実はそんなことは決してないのだ。闇に手を伸ばしても希望は摑める筈もなく、その行為は虚しい結果を残すだけといふのが現実ではないであらうか。ここで、思考の相転移といふ考へを持ち込んでみる。闇の中で希望が全く見えずに悪戦苦闘、試行錯誤を何度も何度も何度も繰り返す中で、「私」はさうしてなんとか希望を見出すこと屡屡である。それは思考が相転移を起こしたと看做せないだらうか。思考の相転移とは、私論に過ぎず、闇尾超の思考の堂堂巡りの末にどん詰まりに追ひ込まれた思考はぴょんと跳び上がり第三者的審級の位置に飛び出るといふ思考に似てゐなくもないのであるが、思考は悪戦苦闘、試行錯誤を何度も何度も何度も繰り返すうちに相転移を起こすのである。相転移を起こした思考はそれまでとは全く違ふ思考の断片や端緒が見え出し、思考の仕方すら変はるのである。然し乍ら、一度の思考の相転移では未だに希望の欠片すらも見出せずに、また、只管に試行錯誤を何度も何度も何度も繰り返すことになる。さうするとまた、思考は相転移を起こし、それまでには全く見出せなかった思考の地平が拓かれるのであるが、それでも未だに希望は見出せない。藁をも縋る思ひで試行錯誤を繰り返し、何とかこの錯綜し混濁し澱んで腐りきった溝(どぶ)水(みず)の如き状況から抜け出さんと藻掻き苦しむ中で、再び思考は相転移を起こす。さうすると、「私」は思考の相転移で変はった思考の欠片や断片の変質により、やうやっと希望の端緒を見出すのだ。そこに至るまでの試行錯誤の繰り返しの失敗の数数は山のやうに堆く積まれ、それに倦み疲れずに試行錯誤を繰り返し、藻掻き苦しむことでやうやっと希望の端緒が見えるのである。ここでいふ思考の相転移とは、思考の仕方の変質を意味するばかりではなく、思考の断片や糸口も全く変容するその様を称して思考の相転移と呼んでゐるのであるが、不意に思考ががらりと変はるといふことはそんなに奇異なことではなく、極普通の出来事として誰にも思ひ当たるものがある筈である。闇尾超がコペルニクス的転回と呼んだ思考の転回は、この思考の相転移のことであるといってもをかしくない。
私を摑まへることは不可能である。何故なら私を摑まへやうとするとハイゼンベルクの不確定性原理が立ち塞がるからである。
――私が私を摑まへることは不可能である。何故なら私が私の内部を分け入って私を摑まへやうとしても私に対してもハイゼンベルクの不確定性原理が立ち塞がり、私を摑まへたと思っても、それは曖昧模糊とした私に過ぎず、私を確定できぬのである。もし、私なるものが確定して捉へられてゐると思ってゐても、それは私なるものの虚像であって私とは似ても似つかぬもので、私らしきものがゐるのみである。何故ハイゼンベルクの不確定性原理が立ち塞がるかといふと、私なるものを摑まへやうとするとき、私なるものは一度たりとも静止したことがなく、それを無理矢理静止させて私なるものをして私だと名指したところで、それは量子と同じく位置が確定できぬやうに私もまた確定できぬ類ひのもので、もしも私が確定できたといふのであれば、それは絶えず蠢き隠遁の術を使って頭蓋内の闇――私はそれを五蘊場と名付け私が現はれる場として規定してゐる――のいづこかに姿を晦ましてゐる筈で、頭蓋内の闇、即ち五蘊場に神出鬼没に出現する私は、捉へどころがないのが実態である。私を捉へる陥穽など五蘊場の彼方此方に罠を仕掛けたところで、五蘊場の私はいづれの罠もするりと擦り抜け、五蘊場の私に哄笑させるのが関の山である。それでも私を摑まへてゐると言ひ張るのであれば、それは私なるものの死体をして私といってゐるだけのことで、それは全く話にならぬ。私を摑まへやうと或る閾値を超えると私は忽然と茫漠として捉へどころがなく曖昧模糊としたものとなり、私を捉へることは不可能なのである。五蘊場における私は素粒子的な存在と看做せなくもなく、私は決して連続的ではなく、ひょいと身を躱してはあらぬ吾に姿を変へること屡屡で、その不連続な吾の在り方はいつかは吾は吾ならざる吾へと変容するべきその予行練習ともこれまた看做せるのだ。吾もまた、私であることに我慢がならず、絶えず憤怒の中にあるのを常としてゐて、憤怒の炎で吾の陽炎が揺らめき立ち、大概はその揺らめき立つ陽炎をして私と名指してゐるに過ぎぬ。仮に本来の吾といふものがあるとして語れば、憤怒の炎で燃え盛った吾は、ゆらゆらと揺れる人魂の如きものとして反物質の存在形態と同じく「反闇」としてその輝きは、周りを照らすことはなく、憤怒の炎で燃え盛る吾のみに収束する不可思議な光であり、Black holeがシュヴァルツシルトの事象の地平面では闇と見えるが、その内実は想像するに光が充溢した強烈な光が内向すると看做せると仮定すれば、反闇の光はBlack hole内部同様に内向する光で包まれてゐるのだ。その内向する光を纏った反闇の本来の吾は、光に包まれながら全く見えぬのである。さう看做せば、そもそも吾の捕獲を目論むこと自体無駄足なのである。
作品名:夢幻空花(むげんくうげ) 作家名:積 緋露雪