三陸の寡婦
またある時は、湾の対岸にある実家の弟に突然電話をかけて、「おじいさんが透明なふわふわしたものに包まれているのを見たったの。もう亡くなったのね」と口走ったこともあったが、そのころ、一人で裏山に山菜取りに行った老人は、急に体調を崩し、体温を保持しようとビニールシートで体を包んだものの死んでいたのである。連絡が取れなくなってから数日後、消防団員によって遺体が発見された。
貞子は食を取る間も惜しんで昼寝をした。体はやせ細り、皮膚は「青白い」を通り越してイカの刺身のように透き通っていて白かった。浮腫をおこして体がむくみ、床ずれで背中は赤い痣になった。個人病院の若い医者はおざなりの診察をして、老衰ですからしかたないですねと決めつけた。血液を採取したにも関わらず、ガンマーカーはおろか、浮腫の原因を分析する蛋白質分画の臨床検査もしなかった。
春になりサバ漁が一段落して、網を巻き終わると比較的長い休暇が漁師たちに与えられる。祝い酒をひっかけたゴウさんは列車に飛び乗り半年ぶりに貞子を訪問することにした。ゴウさんは彼女の異常な衰弱ぶりと浮腫の症状に驚き、救急車を呼んだ。
隣町にある救急病院では即座に精密検査を行い、肝臓がんにより余命いくばくもないという診断を下し、家族に連絡を取った。長男は当然ながら連絡を無視した。
数日後、長女がフランスから到着した。そのころはもう貞子は意識が薄れかけており、一日のほとんどを夢の中で生きていた。それはまさに彼女の望んでいたことだった。
「今日もノブさんが来てくれたっつもな。私を抱き上げて、ずいぶん軽くなったね、ってゆったったの」
彼女は幸せの絶頂にあった。
彼女の取り留めのない長い妄言を黙って聞いていたゴウさんは突然病院を出て酒屋に駆け込み、一升瓶を抱えて店を出ると暗い海を見ながらコップ酒を呷った。
「貞子さんは最後まで俺を愛してくれなかった」
白髪交じりの頭髪が潮風になびいた。
貞子は長女に言った。
「はあ、どおいどこさ、よぐぎたねんす。夢であんたが赤い絨毯の上を歩くところを見たったすの。あんたも苦労すたけば、いいことあるよお」
満月の夜、月光の届かない集中治療室で、貞子は満面の微笑みを浮かべながら死に、出席者の少ない質素な葬式が公民館を借りて行われた。
納骨して初七日の日、杉林の薄暗い山寺で法要が行われ、焼香を促された長女は見た。仏壇の前に赤い汚れた緋毛氈が敷かれていることを。