三陸の寡婦
太平洋に面した三陸地方の細長い湾の西側に人口五万の小さな町があった。その真ん中の漁港からまっすぐ山手に延びる大通りを登っていき、路地に入って百メートル進んだ所に平屋の木造住宅があった。
その台所のガラス窓を通して通りを食い入るように見つめる貞子の態度は、どこか挑戦的でありながら哀願の色を漂わせていた。
終戦から十年経っていた。夫の死亡通知及び遺骨らしきものはすでに送られて来たのではあるが、帰還を期待する彼女の気持ちは衰えることがなかった。
世間の有様はみるみるうちに変貌を遂げていく。しかし貞子は時代の流れを黙殺した。暇さえあれば台所の流しに体を預け、通りを眺めて亡夫の帰りを待ち、昼食後は日が暮れるまでうたた寝をした。夢の中では亡夫に会える。夫が帰ってくるという夢を見て、赤飯を炊いたこともあった。
生木のごとく成長を続ける幼い長男と長女も眼中になかった。長女は空腹に耐えかねて、学校から帰ると母の財布を借りて買い物をし、拙いながらも家族の食事を作るようになった。また貞子は朝寝坊でしかも化粧に時間をかけるので子供たちは朝食を食べられないことが多かった。
貞子は通りを歩くと何人もの男が振り向くほどの美しさを備えていた。
亡夫は医者で色白の美丈夫であり、それに見合う美しい女は自分だけである。だから神様の特別な祝福により結ばれる運命にあり、夫は必ず戻ってくると信じていた。自分が美しければ美しいほど夫が帰還する可能性が高くなると思いこみ、小綺麗な装い及び身づくろいに時間とお金をかけていた。
そんな彼女に求婚する男は何人もいた。中でも敷地中の離れに下宿した元海軍士官のゴウさんは十歳年下ではあったが、軍人特有の強引さで彼女に迫った。彼女はしぶしぶ言った。
「私は帰ってくる夫を迎えるためにきれいな新しい着物を着なければなりません。でも遺族年金は少なくてそれは買えないのです。そのお金をくれるならあなたに抱かれてもいいです。でも夫がいるので結婚はしません。子供も作りません」
男性的な強さとやさしさを持つゴウさんとの愛欲の日々が始まり、ご近所や親戚の人々は、あれだけの美貌だから当然だろうと噂した。しかし彼女は「内縁の妻」という新たな自分の立場を内心では認めていなかった。ゴウさんの男性的な魅力にのめり込むほどに「不貞のような関係」に腹が立った。隠さなければならないとも彼女は思ったが、それはどう考えても無理な話である。
複雑な大人の心情を理解できない幼い長男にその矛先は向かった。
「母ちゃんはゴウさんが好きなの? 結婚するの?」と度々質問されるのに何より腹が立てたのである。ゴウさんに反発して何かと口答えをするのも気に入らなかった。昼寝から起きて現実に向き合い、不機嫌になっているところに、彼は上機嫌で帰ってくる。
学友と遊んで腹をすかし、笑顔で家の引き戸をあけ温かい家庭に迎えられて空腹を満たすことをもくろむ長男に対して、母親はいきなり罵声を浴びせた。
「役立たずの癖に私をそんな目で見るな! 出て行け!」
貞子は突然眼を吊り上げて喚きちらし、箒を振り上げて打擲し、家の扉を閉じ、そして憎悪の籠った音を立てて鍵を閉めた。こうなると周りの人々の取なしも一切聞き入れなかった。
小学校四年生の少年は呆然と玄関先にたたずんでいたが、しばらくすると日没後の裏山に登ってさめざめと泣き始めた。神社の境内では青葉ずくが寂しそうにほ、ほ、ほ、と鳴いていた。本殿に侵入して睡眠を取ろうとしたが、初めての一人寝の寂しさと寒さに耐えかねて、家族が寝てから裏口から家に入った。長男はしばらくして家出し貞子の実家に転がり込んだ。
数年後には町中の高等学校に通学することになり、かつて父親が務めていた病院の入院病棟の物置で暮らすことになった。病院の女性オーナーはかつて雇われ医師の貞子の夫に人望が集まるのをねたんでいた。そして貞子たち家族に冷ややかな態度を取るのが常だった。なんで赤の他人の子供の面倒を押し付けられるのかと目をむいたが、三年間だけという条件でしぶしぶ少年を受け入れたのである。
病棟は浴衣を着て自分の病気について愚痴をこぼす患者ばかりだった。みな家族に見捨てられてここに来たのだと嘆いていた。自分の輝かしい未来を示す絵図は何もなかった。食欲のない患者たちの食べ残しがふんだんにあって食欲を満たすことができたが、陰険な病院オーナーに忖度した看護婦たちから邪魔者扱いされ、罵られた。春になり雪が解けると、死に場所を探して北上山地の山々を放浪した。首にロープを巻き付けてみたがパステルカラーのブナの新芽や山桜の花弁など東北地方の美しい春が黒い死神を追い払った。絶望と敗北感にまみれて泣きながら町に戻った。
高校を卒業すると警察官になり、製鉄工場のある大きな町に赴任してラグビーと出会った。グランドで泥土にまみれ獣性を解き放ち、雄叫びを上げて荒れ狂う少年をチームメイトたちは笑いながら鋼鉄の肉体で包摂し、やがて同化させた。彼は自分の居場所を見つけることができたが、女性というものを甚だしく嫌悪して、生涯結婚しなかった。
広島の海軍士官学校を出て頭脳明晰で統率力もあるゴウさんは大手水産会社に請われてウマブネと呼ばれる大型巻き網漁船の船長になった。そして隣の県の大きな漁港に赴任することになったが、いっしょに来て欲しいという度重なる懇願は貞子に拒否された。ゴウさんはたくさんの花束をもらい、たくさんの人々に見送られてこの町を去っていった。
長女は小さな町の噂話の中で生きることを嫌悪し、盛岡の大学に進学して、卒業後は上京して就職した。年に一度里帰りしたが、それ以外は戻らなかった。数年後には外国人と結婚しフランスに移住して故郷とは疎遠になった。
時の流れは、貞子をさらに孤独にし、昼寝の時間を増やした。もはや現実の世界のことはどうでもよくなり、夢の世界は深く沈降して別世界に接続するようになった。
ある晩、彼女は病院オーナーに何度も電話をかけた。
「もうすぐ津波が来るから、病院に夫が来たら逃げるように伝えてください。あそこは低い土地だからほんとに危ないっつもな」
病院のオーナーは根拠の薄いこの話を聞き流し、何事もなく夜が明けた。
昨夜はひどく迷惑な電話があったと不満を言いながら家族と朝食を取っていると太平洋の彼方から怪獣がざわめくような低い音がした。前触れの地震は無かったにも関わらず、三陸海岸一帯に津波が押し寄せた。南米で起きた大地震の余波によるものであった。
湾内の海面が突然、重力を振り切ってゆっくりと膨らんでいき、ついに堤防を乗り越えて町に進入した。監視カメラで異変に気づいた市役所の職員がすぐにサイレンを鳴らした。この世の終末を告げるような大音量の警報を耳にした人々は大声で避難を呼びかけながら身一つで山手を目指し、あるいは身近な階層住宅を目指した。病院では逃げ遅れた患者及び患者を助けようとした看護婦たちが黒い海水に飲み込まれていった。山手にある貞子の家は被害を受けなかった。
その台所のガラス窓を通して通りを食い入るように見つめる貞子の態度は、どこか挑戦的でありながら哀願の色を漂わせていた。
終戦から十年経っていた。夫の死亡通知及び遺骨らしきものはすでに送られて来たのではあるが、帰還を期待する彼女の気持ちは衰えることがなかった。
世間の有様はみるみるうちに変貌を遂げていく。しかし貞子は時代の流れを黙殺した。暇さえあれば台所の流しに体を預け、通りを眺めて亡夫の帰りを待ち、昼食後は日が暮れるまでうたた寝をした。夢の中では亡夫に会える。夫が帰ってくるという夢を見て、赤飯を炊いたこともあった。
生木のごとく成長を続ける幼い長男と長女も眼中になかった。長女は空腹に耐えかねて、学校から帰ると母の財布を借りて買い物をし、拙いながらも家族の食事を作るようになった。また貞子は朝寝坊でしかも化粧に時間をかけるので子供たちは朝食を食べられないことが多かった。
貞子は通りを歩くと何人もの男が振り向くほどの美しさを備えていた。
亡夫は医者で色白の美丈夫であり、それに見合う美しい女は自分だけである。だから神様の特別な祝福により結ばれる運命にあり、夫は必ず戻ってくると信じていた。自分が美しければ美しいほど夫が帰還する可能性が高くなると思いこみ、小綺麗な装い及び身づくろいに時間とお金をかけていた。
そんな彼女に求婚する男は何人もいた。中でも敷地中の離れに下宿した元海軍士官のゴウさんは十歳年下ではあったが、軍人特有の強引さで彼女に迫った。彼女はしぶしぶ言った。
「私は帰ってくる夫を迎えるためにきれいな新しい着物を着なければなりません。でも遺族年金は少なくてそれは買えないのです。そのお金をくれるならあなたに抱かれてもいいです。でも夫がいるので結婚はしません。子供も作りません」
男性的な強さとやさしさを持つゴウさんとの愛欲の日々が始まり、ご近所や親戚の人々は、あれだけの美貌だから当然だろうと噂した。しかし彼女は「内縁の妻」という新たな自分の立場を内心では認めていなかった。ゴウさんの男性的な魅力にのめり込むほどに「不貞のような関係」に腹が立った。隠さなければならないとも彼女は思ったが、それはどう考えても無理な話である。
複雑な大人の心情を理解できない幼い長男にその矛先は向かった。
「母ちゃんはゴウさんが好きなの? 結婚するの?」と度々質問されるのに何より腹が立てたのである。ゴウさんに反発して何かと口答えをするのも気に入らなかった。昼寝から起きて現実に向き合い、不機嫌になっているところに、彼は上機嫌で帰ってくる。
学友と遊んで腹をすかし、笑顔で家の引き戸をあけ温かい家庭に迎えられて空腹を満たすことをもくろむ長男に対して、母親はいきなり罵声を浴びせた。
「役立たずの癖に私をそんな目で見るな! 出て行け!」
貞子は突然眼を吊り上げて喚きちらし、箒を振り上げて打擲し、家の扉を閉じ、そして憎悪の籠った音を立てて鍵を閉めた。こうなると周りの人々の取なしも一切聞き入れなかった。
小学校四年生の少年は呆然と玄関先にたたずんでいたが、しばらくすると日没後の裏山に登ってさめざめと泣き始めた。神社の境内では青葉ずくが寂しそうにほ、ほ、ほ、と鳴いていた。本殿に侵入して睡眠を取ろうとしたが、初めての一人寝の寂しさと寒さに耐えかねて、家族が寝てから裏口から家に入った。長男はしばらくして家出し貞子の実家に転がり込んだ。
数年後には町中の高等学校に通学することになり、かつて父親が務めていた病院の入院病棟の物置で暮らすことになった。病院の女性オーナーはかつて雇われ医師の貞子の夫に人望が集まるのをねたんでいた。そして貞子たち家族に冷ややかな態度を取るのが常だった。なんで赤の他人の子供の面倒を押し付けられるのかと目をむいたが、三年間だけという条件でしぶしぶ少年を受け入れたのである。
病棟は浴衣を着て自分の病気について愚痴をこぼす患者ばかりだった。みな家族に見捨てられてここに来たのだと嘆いていた。自分の輝かしい未来を示す絵図は何もなかった。食欲のない患者たちの食べ残しがふんだんにあって食欲を満たすことができたが、陰険な病院オーナーに忖度した看護婦たちから邪魔者扱いされ、罵られた。春になり雪が解けると、死に場所を探して北上山地の山々を放浪した。首にロープを巻き付けてみたがパステルカラーのブナの新芽や山桜の花弁など東北地方の美しい春が黒い死神を追い払った。絶望と敗北感にまみれて泣きながら町に戻った。
高校を卒業すると警察官になり、製鉄工場のある大きな町に赴任してラグビーと出会った。グランドで泥土にまみれ獣性を解き放ち、雄叫びを上げて荒れ狂う少年をチームメイトたちは笑いながら鋼鉄の肉体で包摂し、やがて同化させた。彼は自分の居場所を見つけることができたが、女性というものを甚だしく嫌悪して、生涯結婚しなかった。
広島の海軍士官学校を出て頭脳明晰で統率力もあるゴウさんは大手水産会社に請われてウマブネと呼ばれる大型巻き網漁船の船長になった。そして隣の県の大きな漁港に赴任することになったが、いっしょに来て欲しいという度重なる懇願は貞子に拒否された。ゴウさんはたくさんの花束をもらい、たくさんの人々に見送られてこの町を去っていった。
長女は小さな町の噂話の中で生きることを嫌悪し、盛岡の大学に進学して、卒業後は上京して就職した。年に一度里帰りしたが、それ以外は戻らなかった。数年後には外国人と結婚しフランスに移住して故郷とは疎遠になった。
時の流れは、貞子をさらに孤独にし、昼寝の時間を増やした。もはや現実の世界のことはどうでもよくなり、夢の世界は深く沈降して別世界に接続するようになった。
ある晩、彼女は病院オーナーに何度も電話をかけた。
「もうすぐ津波が来るから、病院に夫が来たら逃げるように伝えてください。あそこは低い土地だからほんとに危ないっつもな」
病院のオーナーは根拠の薄いこの話を聞き流し、何事もなく夜が明けた。
昨夜はひどく迷惑な電話があったと不満を言いながら家族と朝食を取っていると太平洋の彼方から怪獣がざわめくような低い音がした。前触れの地震は無かったにも関わらず、三陸海岸一帯に津波が押し寄せた。南米で起きた大地震の余波によるものであった。
湾内の海面が突然、重力を振り切ってゆっくりと膨らんでいき、ついに堤防を乗り越えて町に進入した。監視カメラで異変に気づいた市役所の職員がすぐにサイレンを鳴らした。この世の終末を告げるような大音量の警報を耳にした人々は大声で避難を呼びかけながら身一つで山手を目指し、あるいは身近な階層住宅を目指した。病院では逃げ遅れた患者及び患者を助けようとした看護婦たちが黒い海水に飲み込まれていった。山手にある貞子の家は被害を受けなかった。