ボクとキミのものがたり
洗面所から戻ったボクは、キミの待つ卓袱台の前に腰を下ろした。
キミは、皿の上に紙袋からパンを取り出し、のせているところだった。
「いい匂いだね。パンの焼けた匂いが 朝からすると・・・」
「幸せにゃん。はい、あーん」
「あーんってねぇ」
ボクは、何だか 懐かしく可笑しかった。
「これ 一番のお奨め。誰も見てないからね。はい、あーん」
誰が見ていようと見ていなくても、恥ずかしいんだ。
だが、口の前にキミの指先に摘まれたこんがりバターの香ばしいパンを食べないわけにはいかない。
ボクは、キミの指まで食べるくらいの大口を開けて そのパンに食いついた。
サクッと良い音が耳に伝わり、軽い歯ごたえと甘味のあるしょっぱさが口の中に広がった。
「うはい。おひひいはぁ」
「にゃ?食べ終わってからでいいよ。はい、あーん」
ボクは、待ってと 掌をキミに向け、マグカップの飲み物で流し込んだ。
「はぁ。あ、このミルクティーも美味しいね。でも このクロワッサンは三日月じゃないんだね」
「デニッシュ・ペストリー。形もいろいろあるの。中に あ、これは林檎がはいってるでしょ。こっちは チョコレート」
「ディッシュ? デリシャス?」とからかい半分で言ってみるが、キミの幸せそうな顔にボクの冗談なんて薄れてしまう。
「このパンの故郷では、お誕生日にも食べるんだって」
「ケーキじゃないの?」
「どちらもいいにゃ・・・」
何を考えている? まあ想像はつくが あえて問題を広げないでおこう。
それよりも キミの唇に 薄いデニッシュの皮がついている。気がついているだろうか。
教えてあげようか。それとも 取ってあげようかな。
そんな視線が、届いたのか、キミは、大きく目を見開くと指先で探し当ててしまった。
(しまった・・・ 気付かれた・・・)よくわからない後悔が ボクの視線を逸らした。
一緒に朝食ができたボクは、今日の予定も何だか愉しくなってきた。
このまま、またボクの背中の後ろに居てくれないかなぁ。
卓袱台の上に パリパリと散らばったデニッシュの皮クズを キミが片付けているのを見ながら思う。
いつからだろう。頼りないキミが しっかりと見えてきたのは・・・。
少し淋しい想いがボクの気持ちに、染み込んでくる…… …… ……
「あ、にゃ!」ぺたんと床に腰を落としたキミは、なんと自分の履いているひらりと揺れるスカートの端を踏んだらしい。
それを見て ボクは、かわらないキミに安堵している。(なんて言ったら いけないかな)
「てへへ、見てないね。ないよね?」
ボクは、笑いを堪えた口を一文字に結んだまま、頷いて見せた。
そして、キミは帰って行った。
「お腹空いたら 食べてにゃん」そう言って置いていったデニッシュのパン。
そして、ボクも原稿用紙と万年筆の待つ机の前に座った。
残されたパンの香りが、徐々に薄れていく。
どのパンよりも キミが始めに食べさせてくれたあのひと口目が 一番美味しかったよ。
なんてことを思いながら、原稿を書き始めるボクが居る。
何処かについていたのか ポロッと原稿用紙の上に零れ落ちた。
茶色の焦げ目のデニッシュの香りが 指先からしてくる。
(手を洗ってこなくっちゃ)
きっと キミも同じ香りがしているのかと思うと手を洗うのも勿体無い気がする。
洗面所への通りすがりに横目で卓袱台の上を見る。
キミの代わりにあるのは、皿にのったデニッシュパン。
ただそれだけなのに……。
― Ω ―
作品名:ボクとキミのものがたり 作家名:甜茶