イン・シトゥ
第三章 眠りから覚めた時、世界が今までと同じであるとどう証明するか
僕は目を覚ます。ようやく訳のわからない夢から醒めることができたのか、それを確かめるように周りを見渡してみる。
ふと鼻に動物臭がかすめる。ここは、研究室にある小動物飼育スペースのようだ。およそ四畳半のスペースで壁側2面にマウスのケージを置くためのスチール製ラックが設置されている。そこには数ケージのマウスが飼育されていた。しかし、全てのケージが無くなっていた。片付けられたのだろうか。
僕はラックの設置されていない壁側でソファの上で横になっていた。もちろん、元々この場所にソファなど置いていなかった。ソファを確認すると、四階のセミナー室に置かれていたものと同じようだった。つまり、誰かがここにソファを移動させ、気を失った僕をここに運んでくれたということだろうか。
亜衣か、紘一か。はたして二人は無事なのだろうか。僕はソファから起き上がり、立ち上がろうとする。その瞬間、僕のなかで眠っていた痛みも目を覚ます。後頭部に鋭い痛みを感じた。僕は地震に襲われたときのことを思い出す。あの時、後頭部に強烈な衝撃を受けた。きっと地震で、何か重たいものが落下してきて当たったのだろう。僕はその痛みの発生する場所にそっと触れてみる。そこには包帯が巻かれていた。やはり、誰かが手当をしてくれたようだ。
僕は自分の身体を入念に確認していく。手のひら、腕、腹部、それから足と順に確認する。小さな擦り傷はあったが、捻挫や打撲、骨折はしていないようだ。僕は後頭部の痛みが伝搬しないように、ゆっくりと歩みを進め、小部屋のドアを静かに開いた。それから研究室によろめきながら足を踏み入れた。
壁側の試薬棚に置かれていた瓶類は全てなくなっており、床に散乱した様子もみられなかった。おそらく僕を手当してくれた誰かが部屋の片付けもしてくれたのだろう。僕は自分のデスクに目を向ける。窓から外の景色が見えた。おそらく昼過ぎだろうか。陽光が青々としたケヤキ並木を照らしていた。蝉の鳴き声も聞こえる。グランドも変わらずだ。人の姿は見えない。建物はこの場所からは見えず、地震による影響は伺いしれない。
デスクに辿り着くと、奥側のデスクに紘一の姿が見えた。どうやら椅子に座り、寝ているようだ。紘一が僕を助け、手当をしてくれたのだろうか。紘一も手や足に擦り傷を作っていて、指には絆創膏を巻いていた。亜衣は何処にいるのだろうか。亜衣のデスクには、彼女の灰色のトートバッグが置かれていたが、彼女の姿はない。研究室内を見回しても彼女はいなかった。
しかし、ふいにドアが開く音が聞こえる。そして、その誰かは声を発する。
「嘘」と誰かは言った。「秋くん、目を覚ましたの?」振り返ると、亜衣が立っていた。
「さっき目を覚ましたんだ。君と紘一が僕を助けてくれたのか?」
「ええ。あの地震で秋くんは頭を打ったの。実験台に置いてあった本棚が落ちてきたのね」そう言って、実験台から床に移動された本棚を指差した。「それで気を失っていたのよ」
「どれくらい、僕は気を失っていたんだ?」
「そうね、今日で四日目になるかな」
「そんなに僕は気を失っていたのか」
「ええ。それはそうなんだけど。……どうして、目を覚ませるのかしら。私の仮説は正しくないのかしら」亜衣は独り言のようにそう言った。
「仮説?」彼女の奇妙な発言に僕は反射的に聞き返した。
「あ、ごめんなさい。ええと、順を追って説明しないといけないけど、要するにあの地震があったあとに奇妙なことが起きているのよ。あの地震が原因じゃないかもしれない。あなたも見たでしょ? あの大きな岩みたいな物体。あれが原因かもしれないけど」
「あれはいったい何だったんだろう」
「わからない。でも、あれ以降は見ていないの」
「既存の飛行機や戦闘機のような形でもなかったし、ヘリコプターやオスプレイとも違った。まあ、考えても分からないが……」そこで一旦区切ってから、僕は訊いた。「それで奇妙なこととはいったい何?」
「ちょっと来て」亜衣はそう言って、僕の手を取り、窓際に招いた。そして、紘一を指差した。
「紘一は今、何していると思う?」と亜衣は訊いた。
「何って。寝ているんだろう」紘一は寝息を立てていた。
「そうね。寝ているの。それで寝ていたら、そのあとに起きることは?」
「からかっているのか? まさに“起きる”だろ。起床だ」
「そうよね。でも、あの日以降、誰かに起こされないと、目を覚ますことができなくなったの」
「なんだって? それは昏睡のようなもの?」
「いいえ。私と紘一で色々と実験したの、秋くんが寝ている間に。つまり、夢のなかに閉じ込められてしまうのよ」
「どういうこと?」
「そうね。例えば、私がここで眠るとするわ。そうすると、私は夢を見る。夢って、大体ヘンテコな世界だったりするわよね。見たことも聞いたこともない場所だったり、記憶にある場所もあるけど、色んな場所が混じり合ったり、突然場面が切り替わったり。分かる?」
「うん、分かるよ。それに目を覚ましてしまうと急速に忘れてしまうことも多い」
「ええ、そうよね。でもあれ以降、そんなヘンテコな世界じゃないの。今の現実世界と寸分違わない世界の夢を見るの。まるで夢だとは認識できないくらいに精巧で、よく作られた世界」
「でも、夢なんだろ?」
「それがおかしいのよ。その夢が続いていく。一日の時間の流れも同じ。朝になり、昼になり、そして夜になる。そして、また眠ることになる。でも、そこで眠っては駄目なの」
「どうして?」
「そこで寝てしまったら、夢のなかの更なる夢に落ちていってしまう。現実の世界からどんどん遠ざかってしまうの」
「そんな馬鹿な」
「ええ、馬鹿みたいよね。でもきっとそうなのよ。それで目覚めるためには、一つ上の層の誰かに叩き起こされないと目覚めない」
「けれど、僕は起きたじゃないか。それに僕の夢は……」と僕は言って、少佐と呼ばれたあの世界を思い起こした。けれども、彼女にはまだ話さないことにした。
「あなたが起きたから、私の仮説はもしかしたら間違っているかもしれない。でもこれを紘一と何回か実験して検証したの。今もその検証中。紘一は今眠りについていて、夢のなかで待っている。十五時になった時に起こす約束をしている」そう言って、亜衣が時計を見ると、あと五分ほどで十五時だった。
「なかなか信じられないな」僕は首を振りながら訝しがった。
「私も信じられないわよ。でも、眠り続けて、夢の奥底へと引きずり込まれるのを想像すると怖いの。ある意味、目を覚まさないというのは死んでいるのと一緒よね。だから、私と紘一どちらかが現実世界に残っている状況で、寝ているもう一人を一定の時間が経過したあとに起こすようにしているの。二人とも夢に閉じ込められてしまわないように」
「君の言っていることは理解できる。ただ、余りにも現実離れしている」
「でも、秋くんも“あれ”を見れば、今の世界がどれだけ変わってしまったかが分かると思うわ」
「あれって?」