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彼があるふうに見たとしてそれがそなたにとって何の用があるのか

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 「彼があるふうに見たとして、それがそなたにとって何の用があるのか」Suttanipata908

 福沢諭吉の「学問のすゝめ」の刊行150年記念の会議があるから、おまえ行って漫談をやってこいと言われまして、参上いたしました次第であります。歌も踊りもというわけにはまいりませんが、ひとつお付き合いください。
 「学問のすゝめ」の内容や時代背景などについては他の先生方に譲りまして、わたくしは普遍的な事柄について話させていただきたいと思います。
 わたくしは最近、分子人類学をあらためて勉強していまして、蒙古襞(もうこひだ)についてちょっと詳しく調べようと思って、インターネットで検索してみました。
 蒙古襞というのは、上まぶたが目頭を覆うひだ状の部分のことでして、古くモンゴロイドと呼ばれていた人類集団に多く見られることから、こう呼ばれてきたもので、解剖学的には内眼角贅皮(ないがんかくぜいひ)といいます。「モンゴロイド」と呼ばれていた人たちだけでなく、分子人類学者たちの間でホモ・サピエンスの祖型と目されている南部アフリカのサン人にも多く見られる形質です。
 それで検索しましたら、ヒットしたのはおびただしい数の美容整形クリニックのWebサイトでありまして、わたくしは茫然としてしまいました。
 怖いもの見たさでそれらのサイトをちょっと見てみますと、要するに彼らは、あなたのその蒙古襞、とってしまえば美しくなりますよ、と言っているのでありました。
 わたくしは考え込んでしまいました。美容整形なるものはいったい何なのだろう、と。
 ある人が鏡で自分の目を見て、「この蒙古襞をとれば私はもっと美しくなる。そうすれば私は自分の美しさをもっと承認できる。そうなれば私は晴れやかな気持ちになるだろう」と思ってクリニックへ行くのでしょうか。
 あるいは、「この蒙古襞をとれば私は人に美しいと見做される機会が多くなるかもしれない。そうなれば私は晴れやかな気持ちになるだろう」と思って行くのでしょうか。
 両方の気持ち、という方がほとんどでしょう。しかしあえて比率を言えば、後者の気持ちのほうが大きいという方が多いのではないでしょうか。
 そうだとすると、美容整形を行う人は、ある人があるふうに物事--ここでは自分--を見ることについて用事がある、ということになります。
 それならば、ブッダシャカムニなら彼に次のように言うでしょう。

 「彼があるふうに見たとして、それがそなたにとって何の用があるのか」Suttanipata908

 と。ここでブッダシャカムニは、「宗教的ないし哲学的な教義を他者から聞けば晴れやかな気持ちになる、なんてことあるのかな? わたくしたちが用があるのは、自分自身が何をどのように見るか、だったんじゃなかったの?」という趣旨のことを言おうとしていたのだと思いますけれども、しかしわたくしは、もうひとつの側面をここに見ます。
 それは倫理的な面です。すなわち、ある人が他者があるものをあるふうに見ることに立ち入る、「用がある」とすることは、倫理的に間違っている、と言っていると見ることもできるかもしれない、と。
 ヴィトゲンシュタイン流に言えば「その行為は美しくない」と言っても同じ意味でしょう。ブッダシャカムニにしてみれば「それは双方の心の安らぎにとって役に立たないから間違った行為である」といったところでしょうか。

 昨今、初老の女性をターゲットにしていると思われる化粧品メーカーが乱立しております。
 これらの化粧品は、当然ながら健康ではなく美容--他者が自分をどのように見るか--に価値を置いています。
 彼らによれば、老いがネガティブなものであることは自明であり、老化した姿が醜く、若々しさが美しいことは自明であります。
 ある人が彼らに次のように尋ねたらどうでしょう。
 「え、老いって、そんなにネガティブなものだったっけ?ヴィンセント・ヴァン・ゴッホのタンギー爺さんは、醜いものを醜いもの見たさで描いたもの、ってこと?」
 と。彼らは次のように言うかもしれません。
 「そうではないでしょうね。でも、欲しがる人がいるんだから、売らない手はないでしょう」
 と。ごもっとも。

 ナチ党の党大会のような場--ちょっと正確にはわからなかったのですが--でヨーゼフ・ゲッベルスが「優れた政府には優れたプロパガンダが必要だ」と演説する映像が残っています。直後に聴衆から失笑が漏れます。わたくしはその笑い声に、「こんなことをこんなあけすけに言って善いものなのか」というような、良心の呵責のようなものを見ました。
ですがゲッベルスや当時のナチ党員たちに、「ある人があるふうに見ることに立ち入ること」に倫理的な問題意識があったかどうか。
 スッタニパータのドイツ語訳はファウスベルによって1889年に出ていましたし、1911年にはノイマンによる詳細な注記が施された版も出ておりました。ゲッベルスはハイデルベルク大学で文学の博士号をとっています。ハイデルベルク大学といえば、かのヘーゲルや比較宗教のパイオニア、マックス・ウェーバーが教授を務めていたことでつとに知られていますが、ゲッベルスが哲学や比較宗教をしっかり学んでいたかは疑問です。まして原始仏教となると、聞いたこともない、といったところだったかもしれません。ちなみにゲッベルスの博士論文のタイトルは、「劇作家としてのウィルヘルム・フォン・シュッツ。ロマン派戯曲史への寄与」だったそうです。なんともはや...退屈とか凡庸というような語では到底足りませんな。
 これらの点は別の機会に探求するとしまして、いまわたくしたちとしましては、およそ宣伝や広告を打つ人たちには、「ある人があるふうに見ることに立ち入ること」に倫理的な問題意識というようなものは希薄なのかもしれない、というところで、合意点としてよろしいでしょうか。

 さて件の蒙古襞を美容整形でとってしまおうという人は、ブッダシャカムニに対して反論するかもしれません。
 「いやいや、それが私は彼が私をどう見るかに用があるんだ」
 と。さてこの対決の勝敗やいかに。わたくしですか? わたくしが行司であればいわんやブッダシャカムニに軍配を上げます。決まり手はあざやかな上手ひねり、といったところでしょうか。物言いがある方がいらっしゃることでしょうが、それはこのあとの質疑の時間のお楽しみということにしていただきたい。

 そろそろ、「それでおまえの話は『学問のすゝめ』とどういう関係があるんだ」という野次が飛んできそうですから、論を進めたいと思います。
 この、蒙古襞をとりたい人の多くは、ある人があるふうに見ることに他者が立ち入ることに倫理的な問題があるかどうか、という発想を持たないのではないかと思うのです。ことによると、倫理そのものについて思索したことがないという人もいるかもしれません。