Blindfold
地元民と観光客が半々で集う、小さな居酒屋。お通しに数の子が出るのは、十年前と同じだった。木製のテーブルについた肘を引っ込めると、加藤創太は女店員が目の前に置いた小皿を眺めた。
「お通しです。お飲み物、どうされますか?」
「ハイボールをください」
加藤はそう言って、店員の名札に視線を走らせた。片狩というのは、珍しい名前だ。前に向き直ると、手書きのメニューがエアコンの風を受けて誘うようにひらひらと揺れているのが見えた。
「料理も言っていいですか」
「はい、どうぞ」
片狩は姿勢を正した。その立ち振る舞いは、全身にバネが仕込まれたようにしなやかだ。加藤は言った。
「とん平焼きと、タコさんウィンナーをください。以上で」
タコさんと発音したとき、メモを取る片狩の口角が少しだけ上がったことに気づいて、加藤は肩をすくめた。
「ウィンナーで通じましたかね」
「普通のもあるので、タコさん指定いただけて助かります」
片狩は笑顔ですらすら言うと、通る声でカウンター越しに注文を伝えた。その後ろ姿を見送りながら、加藤は思った。生まれつき客商売に向いているタイプの人間だと。おそらく、この一回のやり取りはずっと記憶に残るだろう。
十年前にこの店を訪れたときのことも、よく覚えている。当時は二十八歳で、日雇いのアルバイトを渡り歩く生活。当日にドタキャンすることも多く、社会の歯車ですらなかった。店主が慣れた手つきで振る、焦げがグラデーションになった半分黒塗りの鍋の方が、当時の自分よりはるかに役立っているぐらいだ。その鍋は、十年前は買ったばかりなのかまだ新しく、店主の手つきは逆に弱々しかった。名前は、山野恭介。カウンター席の端で常連客の相手をしている妻は、山野祥子。
二人の娘の名前は、山野彩奈。その遺体は、八年前に河川敷で発見された。死因は溺死。
ほとんど日が暮れてしまった河原で、小雨が降っているにも関わらず、山野彩菜はじっと川面を見ていた。水曜日が憂鬱なのかと、背丈が半分ぐらいしかない少女の背中を見ながら想像してみたが、答えは出なかった。ただ、何かを待ち構えているように、どこかうわの空に見えた。だから、両肩にかかったランドセルを掴んで、段ボール箱を投げる要領で川に投げ落としたとき、ほとんど空箱を放るように手ごたえを感じなかった。
ひとり目は、そんな風だった。世間では事故死扱いで、殺人とすら認識されていない。
それから十年間、少しずつ北上しながら、人を殺した。六人を殺したところで満足したのが去年。中でも特に記憶に残ったのが、三人いる。まずは三人目の大学生、井ノ島哲夫。登山の休憩中に近寄り、岩を顔面に叩きつけた。次に印象深かったのは六人目の風俗嬢、唐沢有希。工場地帯で自転車の故障に困っているところを偶然見つけ、馬乗りになって首に手を回し、そのまま殺した。しかし、やはり記憶に深く刻まれているのは最初の殺しで、川をじっと見ていた山野彩菜だった。六人の共通点は、こちらが透明人間で視界に入っていないかのように、自分のことで頭がいっぱいだったということ。そうやって油断している人間を見ると、ちょっかいをかけたくなる。今はそんな気も失せているが、この『病気』がいつ再発するかは分からない。そんなことを考えながら年明けに初詣で手を合わせていると、ふと思いついたことがあった。
それは、かつての現場が今はどうなっているのかということ。
行動を開始したのは、二月の初め。それから半年が経ち、収穫はなかなかのものだった。
井ノ島哲夫は、国立大学の経済学部で、二年生だった。登山は流行りで始めただけで、ワンゲル部にいたわけではない。様々なサークルに出入りしていて交遊関係が広く、派手なタイプではあった。最初は落石の事故と思われていたが、岩に血痕が二カ所あったことから、殺人に切り替えられた。当然だ。同じ岩が二回落ちてくることはない。実家は、地元に密着したイノシマ薬局。軟膏を買いに何度も通っている内に『何年か前に住んでましてね』という言葉がきっかけとなって、店主である父が話し始めた。そして、聞き取れた名前をSNSで検索し、井ノ島を悼む大学生の輪まで突き止めた。自分が起こした事件の影響が大体分かって、興味は失せた。
唐沢有希は、真っ暗な工場地帯沿いの道路で、自転車のリアタイヤが回らなくなったことに困り果てていた。ちょうどすれ違ったときにちらりと見たところ、チェーンがギアから抜けただけで、すぐに修理できそうなトラブルだった。一度すれ違ってから戻り、後ろから声を掛けたから、確実に睨み返されるか悪態をつかれるだろう。そう思っていたのだが、唐沢はぼろぼろに泣いていて『もう無理ですう、助けてください』と言った。防犯カメラのない道で、そもそも誰かを殺すつもりで歩いていたから、助けはしなかった。ニュースで唐沢の顔写真が流れたあと、ホストがマンションの一階で自販機を蹴飛ばしていた。その際に言っていた『あいつ、生き返らせてからおれが殺したいわ』という言葉が今でも頭に残っている。唐沢は、ホストクラブの掛けを飛ばしていたのだろう。人間としての底が見えたからその時点で興味は尽きていたが、先月改めて近所を歩いてみたところ、そのホストの勤め先も潰れて、全く別の店に変わっていた。黒服に聞き込みをして、自販機を蹴飛ばしていたホストが唐沢の『本当の彼氏』に刺されて大怪我をしたというところまでは、把握できた。
どうしようもない人間である自分が、これだけの数の人間に、肘打ちを食らわせた。
そう思うと、今こうやって十年振りに居酒屋『チャイム』を訪れているのは、ほとんど運命のようにも感じる。山野彩菜を川に突き落とした一週間後、冷蔵庫が潰れて食材が全部だめになり、晩飯を食べるために訪れたのがこの店で、自分が殺した人間の親が店主だったのだ。十年前は席数がもっと少なかったし、全体的に真っ暗に思えた。それが今は、こんなに明るい。自分が食らわせたはずの一撃が薄れているようにも感じる。
加藤が周りの会話に聞き耳を立て始めたとき、滑るようなスピードで現れた片狩が塞がった両手を掲げながら言った。
「一気に失礼しまあす、ハイボール、とん平、タコさんです」
料理を手早く置き終えた片狩は、片方の口角を持ち上げて営業スマイルを作った。その様子を見ながら、加藤は笑顔で頭を下げた。
「あざす。手際いいですね」
「ありがとうございます。まだまだ修行中でっす」
片狩はエプロンの紐をぐいっと引き上げると、もう片方の口角も上げた。糊が利いたシャツの襟を見る限り、エプロンの下は制服だ。
「学生さんですか?」
加藤が訊くと、片狩は最速記録を競うような速さで小さくうなずいた。
「高三です」
「偉いな、頑張ってね」
加藤はそう言って、別の注文を取りに向かう片狩を見送った。ぱちぱちと炭酸が弾けるハイボールをひと口飲んだとき、常連客が抑えた声で言った。
「ミオちゃん、よく働くよねえ」
「お通しです。お飲み物、どうされますか?」
「ハイボールをください」
加藤はそう言って、店員の名札に視線を走らせた。片狩というのは、珍しい名前だ。前に向き直ると、手書きのメニューがエアコンの風を受けて誘うようにひらひらと揺れているのが見えた。
「料理も言っていいですか」
「はい、どうぞ」
片狩は姿勢を正した。その立ち振る舞いは、全身にバネが仕込まれたようにしなやかだ。加藤は言った。
「とん平焼きと、タコさんウィンナーをください。以上で」
タコさんと発音したとき、メモを取る片狩の口角が少しだけ上がったことに気づいて、加藤は肩をすくめた。
「ウィンナーで通じましたかね」
「普通のもあるので、タコさん指定いただけて助かります」
片狩は笑顔ですらすら言うと、通る声でカウンター越しに注文を伝えた。その後ろ姿を見送りながら、加藤は思った。生まれつき客商売に向いているタイプの人間だと。おそらく、この一回のやり取りはずっと記憶に残るだろう。
十年前にこの店を訪れたときのことも、よく覚えている。当時は二十八歳で、日雇いのアルバイトを渡り歩く生活。当日にドタキャンすることも多く、社会の歯車ですらなかった。店主が慣れた手つきで振る、焦げがグラデーションになった半分黒塗りの鍋の方が、当時の自分よりはるかに役立っているぐらいだ。その鍋は、十年前は買ったばかりなのかまだ新しく、店主の手つきは逆に弱々しかった。名前は、山野恭介。カウンター席の端で常連客の相手をしている妻は、山野祥子。
二人の娘の名前は、山野彩奈。その遺体は、八年前に河川敷で発見された。死因は溺死。
ほとんど日が暮れてしまった河原で、小雨が降っているにも関わらず、山野彩菜はじっと川面を見ていた。水曜日が憂鬱なのかと、背丈が半分ぐらいしかない少女の背中を見ながら想像してみたが、答えは出なかった。ただ、何かを待ち構えているように、どこかうわの空に見えた。だから、両肩にかかったランドセルを掴んで、段ボール箱を投げる要領で川に投げ落としたとき、ほとんど空箱を放るように手ごたえを感じなかった。
ひとり目は、そんな風だった。世間では事故死扱いで、殺人とすら認識されていない。
それから十年間、少しずつ北上しながら、人を殺した。六人を殺したところで満足したのが去年。中でも特に記憶に残ったのが、三人いる。まずは三人目の大学生、井ノ島哲夫。登山の休憩中に近寄り、岩を顔面に叩きつけた。次に印象深かったのは六人目の風俗嬢、唐沢有希。工場地帯で自転車の故障に困っているところを偶然見つけ、馬乗りになって首に手を回し、そのまま殺した。しかし、やはり記憶に深く刻まれているのは最初の殺しで、川をじっと見ていた山野彩菜だった。六人の共通点は、こちらが透明人間で視界に入っていないかのように、自分のことで頭がいっぱいだったということ。そうやって油断している人間を見ると、ちょっかいをかけたくなる。今はそんな気も失せているが、この『病気』がいつ再発するかは分からない。そんなことを考えながら年明けに初詣で手を合わせていると、ふと思いついたことがあった。
それは、かつての現場が今はどうなっているのかということ。
行動を開始したのは、二月の初め。それから半年が経ち、収穫はなかなかのものだった。
井ノ島哲夫は、国立大学の経済学部で、二年生だった。登山は流行りで始めただけで、ワンゲル部にいたわけではない。様々なサークルに出入りしていて交遊関係が広く、派手なタイプではあった。最初は落石の事故と思われていたが、岩に血痕が二カ所あったことから、殺人に切り替えられた。当然だ。同じ岩が二回落ちてくることはない。実家は、地元に密着したイノシマ薬局。軟膏を買いに何度も通っている内に『何年か前に住んでましてね』という言葉がきっかけとなって、店主である父が話し始めた。そして、聞き取れた名前をSNSで検索し、井ノ島を悼む大学生の輪まで突き止めた。自分が起こした事件の影響が大体分かって、興味は失せた。
唐沢有希は、真っ暗な工場地帯沿いの道路で、自転車のリアタイヤが回らなくなったことに困り果てていた。ちょうどすれ違ったときにちらりと見たところ、チェーンがギアから抜けただけで、すぐに修理できそうなトラブルだった。一度すれ違ってから戻り、後ろから声を掛けたから、確実に睨み返されるか悪態をつかれるだろう。そう思っていたのだが、唐沢はぼろぼろに泣いていて『もう無理ですう、助けてください』と言った。防犯カメラのない道で、そもそも誰かを殺すつもりで歩いていたから、助けはしなかった。ニュースで唐沢の顔写真が流れたあと、ホストがマンションの一階で自販機を蹴飛ばしていた。その際に言っていた『あいつ、生き返らせてからおれが殺したいわ』という言葉が今でも頭に残っている。唐沢は、ホストクラブの掛けを飛ばしていたのだろう。人間としての底が見えたからその時点で興味は尽きていたが、先月改めて近所を歩いてみたところ、そのホストの勤め先も潰れて、全く別の店に変わっていた。黒服に聞き込みをして、自販機を蹴飛ばしていたホストが唐沢の『本当の彼氏』に刺されて大怪我をしたというところまでは、把握できた。
どうしようもない人間である自分が、これだけの数の人間に、肘打ちを食らわせた。
そう思うと、今こうやって十年振りに居酒屋『チャイム』を訪れているのは、ほとんど運命のようにも感じる。山野彩菜を川に突き落とした一週間後、冷蔵庫が潰れて食材が全部だめになり、晩飯を食べるために訪れたのがこの店で、自分が殺した人間の親が店主だったのだ。十年前は席数がもっと少なかったし、全体的に真っ暗に思えた。それが今は、こんなに明るい。自分が食らわせたはずの一撃が薄れているようにも感じる。
加藤が周りの会話に聞き耳を立て始めたとき、滑るようなスピードで現れた片狩が塞がった両手を掲げながら言った。
「一気に失礼しまあす、ハイボール、とん平、タコさんです」
料理を手早く置き終えた片狩は、片方の口角を持ち上げて営業スマイルを作った。その様子を見ながら、加藤は笑顔で頭を下げた。
「あざす。手際いいですね」
「ありがとうございます。まだまだ修行中でっす」
片狩はエプロンの紐をぐいっと引き上げると、もう片方の口角も上げた。糊が利いたシャツの襟を見る限り、エプロンの下は制服だ。
「学生さんですか?」
加藤が訊くと、片狩は最速記録を競うような速さで小さくうなずいた。
「高三です」
「偉いな、頑張ってね」
加藤はそう言って、別の注文を取りに向かう片狩を見送った。ぱちぱちと炭酸が弾けるハイボールをひと口飲んだとき、常連客が抑えた声で言った。
「ミオちゃん、よく働くよねえ」