猫の女王
6 お色気バー
1
シッポ猫が言ったとおり、公道に沿った雑木の斜面がえぐるように凹んでいた。
そこに、赤色のコカ・コーラの自動販売機が三台ならんでいる。
どこか空気がざわつき、猫の気配がする。
車に注意し、アスファルトの道路を横切った。
忍び足で、そっと裏をのぞいてみる。
幅一メートル、長さ三メートルほどのスペースがあり、四匹のサビ猫が尻を地面につけ、しゃがんでいた。
まちがいなく営業中だった。
ここはどうやら、外部からきて住み着いたサビ猫たちが営業している店のようだった。
これから太陽が勢いを増す、午前十時を過ぎたばかりだ。
入口の草の上には、二匹の猫が顎(あご)を地面につけるように腹這っている。
二匹とも年寄り猫だ。
手前の猫は、赤茶のサビ猫である。
日ノ元にもサビ猫はいるが、鬼花郷(おにはなごう)の黒っぽい毛色とちがい、色が明るい。
まさかヨボジイではと目を凝らし、銀次郎は手前の赤茶のサビ猫にちかづいた。
ぷーんと、心地よいアルコールの匂いがした。
「もしもし、もしもし」
肩口をのぞき、ささやいた。
鼻の先が黒い。むむっと声がもれ、ずずっと両足が動いた。
「もしかしたら、あなたはヨボジイじゃないでしょうか?」
単刀直入(たんとうちょくにゅう)に訊ねた。
返事はない。
頭のうえから、吐瀉物(としゃぶつ)の甘酸っぱいアルコールの匂いがしてくる。
そのむこうの茶色の一匹は、グウスウと鼾(いびき)をかいている。
うつ伏せになった頭部の片耳が千切れ、半分になっている。
二匹ともすでにできあがり、夢のなかのようだった。
「もしもし、もしかしたらヨボジイのこと知りませんか。もしもし……」
片耳のほうにも声をかけてみた。
ぴくりと手先が動いたような気がしたが、やはり反応はない。
2
「あら、いらっしゃーあい」
三毛猫の銀次郎に気づき、エサバーの二匹のサビ猫がふりむいた。
二匹の甘ったるい声が、二重奏(にじゅうそう)で響く。
黒毛とオレンジの細かい毛が、ランダムに入り混じっている。
全体は黒かったが、艶(つや)があり、目がぱっちりしてかわいい。
スタイルも細身で、すっきりしている。
三毛猫の銀次郎はおどろいた。
管理事務所の前の擂(す)り鉢(ばち)広場にいたとき、無言で自分たちを睨んでいたドラ猫合唱隊のサビ猫とは大ちがいだった。
まず、きれいに光る親しみのある瞳。
その目で、銀次郎を見つめる。
小首をかしげ、微笑(ほほえむ)む。
ドラ猫合唱隊からは考えられない、鬼花郷のサビ猫のふるまいだ。
自動販売機の裏の猫たちの前には、底の浅い皿と深い皿が二つづつ、合計四つならんでいる。
底の浅い皿のほうには、魚の干物など何種類かのツマミが盛られている。
深皿のほうには、液体が注がれ、販売機のモーターの振動で表面に小波が立っている。
「お兄さん、いらっしゃい。今日はじめて?」
二匹のサビ猫のうち、手前の一匹が笑顔をつくりなおし、話しかけてきた。
「鈴々(れいれい)ちゃんというひと、いる?」
銀次郎は、シッポ猫に教わった名前を口にしてみた。
「まあ、鈴々のこと好きなの? でも鈴々はもう決まった相手ができたので、その人のところに行くため、さっきお店退(ひ)けちゃったの。だからもういないんだけど。あたしじゃだめ? あたし百恵(ももえ)って言うの。そんなところにいないで、もっとこっちにきなさいよ」
百恵は、相手にしていた客の二匹に挨拶をし、三毛猫の銀次郎を手招きする。
客の二匹は、じじいではなく、中年の日ノ元の猫だった。
なんだろうここは、と銀次郎は興味津々(きょうみしんしん)、ヨボジイの件を忘れかけた。
百恵に誘われるように、地面に張りつくオオバコの葉を踏んでちかづいた。
「さ、どうぞ、ここに腰おろしてちょうだい」
百恵は、自分のとなりの草の上を、とんとんと手で示す。
その手つきも、なんだか色っぽい。
銀次郎がその場所に腰をおろすと、百恵は腰をずらして体をよせ、暖かく密着してきた。
百恵のとなりに、ホステスの茶毛のサビ猫美人。
そのむこう側に、二匹の日ノ元猫の客がいる。
百恵は、座ったばかりの銀次郎の腕にしがみつく。
二十四時間営業のエサバーだと、シッポ猫は言った。
それにしても、かなり熱いデイタイムの接客態度である。
「一杯どうぞ。おつまみは煮干しに鱈(たら)と鰯(いわし)の干物(ひもの)、それにスルメ。お好きなものを召しあがれ」
銀次郎はとりあえず、丸干しの小魚を一匹、口に入れた。
ポキポキパキパキと前歯で噛み、奥歯で砕いて喉に送りこむ。
「お酒どう? 自由に呑んでちょうだい」
百恵の前のアルミホイルの深皿に、なみなみと酒が汲まれている。
いい匂いがぷーんと漂う。
「はいこれでどうぞ」
百恵は銀次郎にしなだれかかり、ストローを差しだした。
同時に、ふうっと耳元に息を吹きかけてくる。
アルコールの匂いと甘美(かんび)な化粧水の香りが頬をなでる。
よく見ると、二匹の先客もストローを二本の爪のあいだに挟んでいる。
「ねえ。ここ初めてでしょう。お名前おしえて」
「銀次郎」
つい、ほんとうの名前を告げた。
ちょっと緊張しているせいもあった。
「誰にここのエサバーおそわったの?」
「さっき、その先の道で会った長いシッポの猫にだけど。鈴々(れいれい)さんといい仲になったって喜んでた」
「そう、鈴々ちゃんはそのシッポ猫さんといい仲になったので、きっといっしょに暮らすようになるでしょうね」
なんでもないことのように、宣言する。
「どうしてそんなこと、分かるの?」
「あら、ここのエサバーはそれが売りなんだもの。男は女と仲良くなったら、すぐにでもネンゴロになりたいでしょう。ここはその願いを叶えるバーなんだからさ。あたし、あなた気に入ったけど、どう?」
いきなり太股をつねられた。いくらなんでも早すぎだ。
「あたし、あなたがあっちの方からてくてく歩いてくるの、さっきコカ・コーラの自動販売機の陰から見てたの。いい男だ、もしエサバーの客なら、あたしの理想の男になるって」
「それでそうなったときには、このバーに幾らか払うんですか?」
「やだ、お金なんていらないんだってば。ここは出会いが目的のバーだから、気が合えば自然に同棲(どうせい)していっしょに暮らしていいことになってるの。銀次郎さん、あなた何街区に住んでるの? 独身?」
「三街区、独身だけど」
聞かれ、ついまた事実を答えた。
「三街区、独身……さいこー」
両手を胸にあて、百恵は一オクターブ高い声で喜んだ。
まだ会ったばかりなのに、話が勝手に進む。
3
「あのさ、鈴々さんが行っちゃって、もし百恵さんもいなくなったら、ここに一人しか残らないし、そのホステスさんも気に入った相手ができたら、エサバーに女の人いなくなっちゃうけど、その時はどうすんの?」
「だいじょぶ、だいじょぶ」
百恵は肩をくんとあげ、楽しそうに首をふった。
銀次郎はなにが大丈夫なのかと、百恵のつぎの言葉をまった。