化け猫地蔵堂 1巻 3話 子を産む女
「おれだあ~、半蔵だあ~、おれの赤ん坊はどうしたあ~」
手をまえにだし、畳の上を滑るように歩いた。
お高が、掻巻をはねのけ、勢いよく立ち上がった。
幽霊の胸を、そろえた両手でどんと突いた。
幽霊は畳に尻餅をついた。
ずらした三角の布を首にかけ、あおむいた姿勢の弥平がお高に語りかける。
「おれはこうやって出てきたんだ。だから産まれた赤ん坊はおれの子だ。おれはおまえが死ぬほど好きだ。半蔵も幽霊も忘れてくれ。おれと仲良く暮らそう。あの赤ん坊はおれたちの子だ」
あたりは薄暗い。
襖の人影が、ぼやけたりはっきりしたりを二度、三度くりかえした。
「あ、あんたっ」
お高が叫んだ。
人影が、はっきり浮き上がった。
「お、た、か、あ~」
腹を空かせたような、せつない声だった。
「わあ~」
弥平が畳に尻餅をつきなおした。
それから、あわててからだを返し、ひれ伏した。
両手を頭の上に合わせ、念仏を唱えだした。
お高も弥平と一緒に畳に伏せた。
「なむあみだぶ……」
「なむあみだぶ……」
8
《隼長屋の、弥平の家をのぞいてきたよ》
ブチ猫が戻ってきた。
ふくらんだ赤茶の毛に、外の空気をいっぱいにはらませている。
胸の白い毛がまぶしい。
《うまくいってたか?》
《お高さんは弥平の家に移っていた。弥平さんは櫛を作り、お高さんは子供を背負い、井戸端で洗濯をしていた》
トラは二人の仲をうまくまとめようと思い、半蔵の幽霊ででるつもりだった。
ところが本物がでてきてしまったのだ。
襖に映った幽霊は二人にこう告げた。
『おれは、ほんのちょっとしかお高と暮らせなかった。惚れた女房なのに子供も残せずに死んでしまい、本当に無念だった。だからおれは弥平さんのからだを借りた。弥平さんは自分の意思で出たつもりでいても、半分はおれが操っていた。だからお高は、おれと弥平さんとに抱かれたってことになる。そういう訳で、赤ん坊はおれと弥平さんとの合作ということになる。子供の顔を見るまではと、おれはそこらを彷徨っていたが、もうむこうへ行く。夫婦で仲良く暮らし、赤ん坊を立派に育ててくれ。たのむぜえ』
必死にひれ伏す弥平とお高。
部屋じゅうの戸が、ばたばた揺れた。
ひゅ~ん。でれでれでれ……。
また笛と太鼓の音。
部屋に、ふわっと生暖かい風が流れた。
と、物音も風もぴたっとやんだ。
ふいに静寂がもどった。
ひんやりしたいつもの空気だった。
お高が顔をあげた。
もう襖に半蔵の影はなかった。
《おどろいたよ。化けようと思ったら、先に本物の幽霊が出てくるんだからな》
《あのときあたしは、てっきりあんたがやってんのかと思ったよ》
幽霊はやっぱりいるのだ。
この世に生きていたときの切なさが消え去り、満足したとき、ようやくあの世に旅立つのである。
江戸の空の夕日が、ゆっくり沈んでいった。
3話完
作品名:化け猫地蔵堂 1巻 3話 子を産む女 作家名:いつか京