化け猫地蔵堂 1巻 1話 番町猫屋敷
化け猫地蔵堂 1巻
1話 番町猫屋敷
1
江戸は神田の駿河台(するがだい)下。
木立に囲まれた地蔵堂。
町が夜の帳(とばり)に沈もうとしている。
お地蔵様は赤い涎掛(よだれかけ)をつけ、胸を反らしている。
風月を経、人々の幾多の秘事を耳にしながら永遠に口を閉ざしている。
《聞こえるよ、ほら》
《うん、聞こえるな》
格子窓の奥に深緑の丸い輝きが四つ、横に並んでいる。
トラ猫と三毛の猫だ。
二匹とも薄茶の体で、オスのトラは濃い茶の縦縞が入っている。
メスの三毛は、薄茶のからだに濃い茶と白の縞模様が散っている。
二匹の薄茶の猫は、地蔵堂の天井裏で息を殺し、全身を強張(こわば)らせた。
遠くかすかに半鐘が鳴っていた。
西の空がほのかに赤い。
二匹は白い歯を見せ、前足でがりりっと天井板を掻く。
《火事は苦手だよ》
《火はこわいものな》
燃えさかる真っ赤な炎。想像しただけも身がすくむ。
半鐘は、すぐに間のびした。小火(ぼや)だった。
やがて江戸の町は、夜の静寂に包まれた。
と、木立にかこまれた小さな庭に、不穏な空気が流れた。
二匹のからだの毛が、ふわっと浮いた。
メスの三毛が、参道に面した格子窓に額を押しつける。
オスのトラが横にならぶ。
《来るよ……だれかが》
三毛が、闇の一点に目を凝らす。
闇のなかに灯が揺れていた。
足元を照らす明かりである。
着物の裾《すそ》が見えた。
足音がしていないのは、裸足だったからだ。
素足の女が地蔵様のまえに立った。
「お地蔵様、助けてください」
若い女だった。顔が青白い。
「見てしまったんです。奥方様は恐ろしい人です。わたしは殺されて……」
見開かれた二つの瞳が光った。
女は提灯(ちょうちん)をかかげ、地蔵堂の入口をふり返った。
そして、あわてて辺りを見まわした。
お堂の背後は、背丈の二、三倍ほどの自然の岩壁だ。
そこが袋状だとわかると、女は出入口のほうにとって返した。
提灯がゆれ、木立の枝影が嵐のごとくざわめいた。
「ぎゃあっ」
悲鳴がおこった。
地蔵堂の入口の方だった。
トラと三毛の二匹は、天井裏の背後の板壁の隙間から跳びだした。
藁葺(わらぶ)きの屋根にあがり、てっぺんで跳ねた。
お堂の脇の椎(しい)の木の枝と幹を伝い、庭におりた。
一直線、石畳の路を走った。
あたりは血の臭いにおおわれていた。
《にゃおう》
《にゃごう》
同時に叫んでいた。
石畳に投げだされた人の体。
切り口から吹きだす温かい鮮血。
かたわらに転がる女の首。
地面で提灯が燃えていた。
燃えつきる瞬間、炎が勢いをました。
悲鳴を聞き、通りをへだてた家から人が出てきた。
なにごとかと手燭《てしょく》を掲げ、地蔵堂の入口を照らす。
「わあっ」
目にした光景に手燭を投げだした。
背を向け、逃げだす。
《犯人は、まだすぐそこだ》
《逃がすな》
おどろきの衝撃が消えないまま、トラが町屋の屋根に飛び移る。
三毛が地蔵堂のまえの通りを横切った。
トラは屋根から屋根へと走った。
三毛は通りを駆ける。
だが、それらしき物の気配も、それらしき影も消えていた。
その速さは、猫族が発揮する全身全霊《ぜんしんぜんれい》の瞬発力をこえていた。
女中は紙入れもなにも持っていなかった。
腰元(こしもと)風の着物姿からも、どこかのお屋敷で働いていたのだろう。
手にしていた提灯も燃え、屋敷の家紋も消えた。
《あの物の怪の気配は?》
《もしかしたら?》
地蔵堂の境内の出入り口だった。
トラと三毛の二匹は肩をならべ、ぶるんと仲良く首をふるわせた。
全身の毛が、ざわっとそよいだ。
じつは、二匹の猫は化(ば)け猫である。
化け猫といっても、人に恨みを持っている訳ではない。
おどろおどろしい姿をしているわけでもない。
ごくごく普通の猫である。
地蔵堂の天井裏に住み、お参りにくる人間の願いごとを聞いていたのだ。
しかし、ただ聞いている訳ではなかった。
化け猫の力を利用し、困っている人を助けていたのである。
2
夜が明けた。
昨夜の異様な光景がトラと三毛の頭から離れなかった。
若い女性は『助けてください、殺されてしまいます』と訴えた。
そしてそのとおり、おどろくほどの残酷さで……。
一瞬だった。
《まだ若い女性だったよ》
《なにがあったんだろう》
トラと三毛の頭から、衝撃が消えない。
町民の訴えで、朝早くから役人もやってきた。
番小屋からも人がでて、地蔵堂の入口は調査やら死体の始末やらで騒がしかった。
番小屋は、武家の屋敷町や町人の住む町の辻などにあり、治安を守っている。
《どうやら後始末も済んだらしい》
《やっと静かになったね》
《でもいったあれは‥‥》
《なんだったんだろうね》
トラと三毛は床に投げだした前足の爪を、こここと小刻みに掻いた。
《番小屋、のぞきにいってみようか》
《そうだね。いまごろは役人たちが、ああでもないこうでもないと話し合ってるよ》
いつしか、興味が恐怖を押し退けようとしていた。
二匹の猫は同時に起きあがった。
地蔵堂の入口は町民たちの手により、きれいに片づけられていた。
しかし、血の臭いまでは消えない。
番小屋には、町を見下ろす火の見櫓《やぐら》が建っている。
そこでは、火番はもとより、町におこった事件の探索や処理、町人たちの人別の記載事務など、あらゆる雑務がおこなわれる。
毎日、交代で住民が番を勤め、幕府の役人である同心や下っぱの目明が顔をだす。
犯罪者を一時的に収容する臨時の牢屋もある。
だから番小屋にいれば、自然になにかがわかる。
トラと三毛の猫は、番小屋の土間の隅で腹這った。
番小屋のみんなは、近くの家猫がひまつぶしに遊びにきているものと思い、気にもとめない。
にょろっと首がのびるろくろっ首、武家の主の御手討(おてう)ち、中間(ちゅうげん)が盗賊に豹変した話、家督相続の骨肉の争い、喧嘩、仕返し、色恋沙汰‥‥事件はいくらでもあった。
立ち寄りついでに茶ををすすっていた同心に、あとから来た目明かしが報告した。
「旦那、男狂いの妾《めかけ》ってことらしいんです」
同心は、町の治安をあずかる役人。目明(めあか)しは、その下で働く走り使いだ。
目明しは息をつぎ、せわし気な口調で語りはじめた。
佐武藩《さたけはん》の殿様が、番町の別邸に妾(めかけ)を住まわせている。殿様が三河町の本邸で病に臥(ふ)せているのをよいことに、妾は夜毎に男をひきこんでいる。妾は大の猫好きで、屋敷内に何匹もの猫を放し飼いにし、別名『猫屋敷』とも呼ばれている──。
「ところが、ひっぱりこまれた男たちなんですが、屋敷に入ったきり、出てこねえんだそうです」
目明しは、猫屋敷に消えた一人の男について報告しはじめた。
男は、召使の仕事をする中間で、口入れ屋からの紹介でほかの屋敷にいくとちゅう、猫屋敷に呼びこまれた。
1話 番町猫屋敷
1
江戸は神田の駿河台(するがだい)下。
木立に囲まれた地蔵堂。
町が夜の帳(とばり)に沈もうとしている。
お地蔵様は赤い涎掛(よだれかけ)をつけ、胸を反らしている。
風月を経、人々の幾多の秘事を耳にしながら永遠に口を閉ざしている。
《聞こえるよ、ほら》
《うん、聞こえるな》
格子窓の奥に深緑の丸い輝きが四つ、横に並んでいる。
トラ猫と三毛の猫だ。
二匹とも薄茶の体で、オスのトラは濃い茶の縦縞が入っている。
メスの三毛は、薄茶のからだに濃い茶と白の縞模様が散っている。
二匹の薄茶の猫は、地蔵堂の天井裏で息を殺し、全身を強張(こわば)らせた。
遠くかすかに半鐘が鳴っていた。
西の空がほのかに赤い。
二匹は白い歯を見せ、前足でがりりっと天井板を掻く。
《火事は苦手だよ》
《火はこわいものな》
燃えさかる真っ赤な炎。想像しただけも身がすくむ。
半鐘は、すぐに間のびした。小火(ぼや)だった。
やがて江戸の町は、夜の静寂に包まれた。
と、木立にかこまれた小さな庭に、不穏な空気が流れた。
二匹のからだの毛が、ふわっと浮いた。
メスの三毛が、参道に面した格子窓に額を押しつける。
オスのトラが横にならぶ。
《来るよ……だれかが》
三毛が、闇の一点に目を凝らす。
闇のなかに灯が揺れていた。
足元を照らす明かりである。
着物の裾《すそ》が見えた。
足音がしていないのは、裸足だったからだ。
素足の女が地蔵様のまえに立った。
「お地蔵様、助けてください」
若い女だった。顔が青白い。
「見てしまったんです。奥方様は恐ろしい人です。わたしは殺されて……」
見開かれた二つの瞳が光った。
女は提灯(ちょうちん)をかかげ、地蔵堂の入口をふり返った。
そして、あわてて辺りを見まわした。
お堂の背後は、背丈の二、三倍ほどの自然の岩壁だ。
そこが袋状だとわかると、女は出入口のほうにとって返した。
提灯がゆれ、木立の枝影が嵐のごとくざわめいた。
「ぎゃあっ」
悲鳴がおこった。
地蔵堂の入口の方だった。
トラと三毛の二匹は、天井裏の背後の板壁の隙間から跳びだした。
藁葺(わらぶ)きの屋根にあがり、てっぺんで跳ねた。
お堂の脇の椎(しい)の木の枝と幹を伝い、庭におりた。
一直線、石畳の路を走った。
あたりは血の臭いにおおわれていた。
《にゃおう》
《にゃごう》
同時に叫んでいた。
石畳に投げだされた人の体。
切り口から吹きだす温かい鮮血。
かたわらに転がる女の首。
地面で提灯が燃えていた。
燃えつきる瞬間、炎が勢いをました。
悲鳴を聞き、通りをへだてた家から人が出てきた。
なにごとかと手燭《てしょく》を掲げ、地蔵堂の入口を照らす。
「わあっ」
目にした光景に手燭を投げだした。
背を向け、逃げだす。
《犯人は、まだすぐそこだ》
《逃がすな》
おどろきの衝撃が消えないまま、トラが町屋の屋根に飛び移る。
三毛が地蔵堂のまえの通りを横切った。
トラは屋根から屋根へと走った。
三毛は通りを駆ける。
だが、それらしき物の気配も、それらしき影も消えていた。
その速さは、猫族が発揮する全身全霊《ぜんしんぜんれい》の瞬発力をこえていた。
女中は紙入れもなにも持っていなかった。
腰元(こしもと)風の着物姿からも、どこかのお屋敷で働いていたのだろう。
手にしていた提灯も燃え、屋敷の家紋も消えた。
《あの物の怪の気配は?》
《もしかしたら?》
地蔵堂の境内の出入り口だった。
トラと三毛の二匹は肩をならべ、ぶるんと仲良く首をふるわせた。
全身の毛が、ざわっとそよいだ。
じつは、二匹の猫は化(ば)け猫である。
化け猫といっても、人に恨みを持っている訳ではない。
おどろおどろしい姿をしているわけでもない。
ごくごく普通の猫である。
地蔵堂の天井裏に住み、お参りにくる人間の願いごとを聞いていたのだ。
しかし、ただ聞いている訳ではなかった。
化け猫の力を利用し、困っている人を助けていたのである。
2
夜が明けた。
昨夜の異様な光景がトラと三毛の頭から離れなかった。
若い女性は『助けてください、殺されてしまいます』と訴えた。
そしてそのとおり、おどろくほどの残酷さで……。
一瞬だった。
《まだ若い女性だったよ》
《なにがあったんだろう》
トラと三毛の頭から、衝撃が消えない。
町民の訴えで、朝早くから役人もやってきた。
番小屋からも人がでて、地蔵堂の入口は調査やら死体の始末やらで騒がしかった。
番小屋は、武家の屋敷町や町人の住む町の辻などにあり、治安を守っている。
《どうやら後始末も済んだらしい》
《やっと静かになったね》
《でもいったあれは‥‥》
《なんだったんだろうね》
トラと三毛は床に投げだした前足の爪を、こここと小刻みに掻いた。
《番小屋、のぞきにいってみようか》
《そうだね。いまごろは役人たちが、ああでもないこうでもないと話し合ってるよ》
いつしか、興味が恐怖を押し退けようとしていた。
二匹の猫は同時に起きあがった。
地蔵堂の入口は町民たちの手により、きれいに片づけられていた。
しかし、血の臭いまでは消えない。
番小屋には、町を見下ろす火の見櫓《やぐら》が建っている。
そこでは、火番はもとより、町におこった事件の探索や処理、町人たちの人別の記載事務など、あらゆる雑務がおこなわれる。
毎日、交代で住民が番を勤め、幕府の役人である同心や下っぱの目明が顔をだす。
犯罪者を一時的に収容する臨時の牢屋もある。
だから番小屋にいれば、自然になにかがわかる。
トラと三毛の猫は、番小屋の土間の隅で腹這った。
番小屋のみんなは、近くの家猫がひまつぶしに遊びにきているものと思い、気にもとめない。
にょろっと首がのびるろくろっ首、武家の主の御手討(おてう)ち、中間(ちゅうげん)が盗賊に豹変した話、家督相続の骨肉の争い、喧嘩、仕返し、色恋沙汰‥‥事件はいくらでもあった。
立ち寄りついでに茶ををすすっていた同心に、あとから来た目明かしが報告した。
「旦那、男狂いの妾《めかけ》ってことらしいんです」
同心は、町の治安をあずかる役人。目明(めあか)しは、その下で働く走り使いだ。
目明しは息をつぎ、せわし気な口調で語りはじめた。
佐武藩《さたけはん》の殿様が、番町の別邸に妾(めかけ)を住まわせている。殿様が三河町の本邸で病に臥(ふ)せているのをよいことに、妾は夜毎に男をひきこんでいる。妾は大の猫好きで、屋敷内に何匹もの猫を放し飼いにし、別名『猫屋敷』とも呼ばれている──。
「ところが、ひっぱりこまれた男たちなんですが、屋敷に入ったきり、出てこねえんだそうです」
目明しは、猫屋敷に消えた一人の男について報告しはじめた。
男は、召使の仕事をする中間で、口入れ屋からの紹介でほかの屋敷にいくとちゅう、猫屋敷に呼びこまれた。
作品名:化け猫地蔵堂 1巻 1話 番町猫屋敷 作家名:いつか京