娘と蝶の都市伝説5
娘と蝶の都市伝説5
5-1 陰毛のDNA分析
1
秦周一は、東京ドームの二階の特別観覧席にいた。
ピッチングマウンドの正面の位置である。
ドームの天井にこだまし、外野席の応援団の声援が途切れなく続く。
ユキはたった三試合で、エースになった。
「ユキ、ユキ、ユキ。TG天使、ユキ、ユキ、ユキ。ゴーゴー、ユキ、ユキ、レッツゴー」
歓声がドームの天井に跳ね返り、耳をおおう。
応援団は、バックスクリーン前の中間エリアを越え、三塁側外野席、ビジターチームの応援席にまで迫っていた。
登板数はまだ三回だけだった。
だが、ピッチング内容から見ても対戦相手はたぶん負ける。
ホーム球場で二回、遠征球場で一回の三完投。
まだ一点も取られていない。
三試合で内野ゴロが三本、内野フライが二本、外野フライが一本だ。
また、ユキの一挙一動を観察する楽しみもあった。
白い頬を赤らめ、振りかぶってワインドアップで投げる柔らかなフォーム。
リリースの瞬間に手先から離れた白球が、矢のように一直線に走る。
そして、キャッチャーがかまえたミットにぴたりと納まる。
満足そうに微笑むユキ。
スポーツ新聞は、一面をユキの写真で飾った。
客はそんなユキが見よう、と球場にやってきた。
ユキはたまたま日曜の登板になったので、そのまま公式の登板日になった。
予想以上の人気を博したので、ファンのためにウイークディにもベンチに入った。
スポーツ新聞は部数を増やし、テレビは視聴率を二倍にした。
球場は、七十パーセントほどに落ち込んでいた入場者数を百パーセントに戻した。
「インタビューには応じない。プライベートはいっさい明かさない。謎のままであればあるほど注目度は上がる。みんな直接球場にユキを見にくる。あるいはテレビを見る。そして新聞を読む。いいね」
畑中は、手の平で短髪をぐるうっと撫で、うひひと笑う。
目論見が当たったのだ。
裏のほんとうのマネージャーで、父親である秦周一の名前は明かさない。
TG内部でも秦の名前を知っている者は、表のマネージャーである畑中だけだ。
球団関係者やチームメイトが秦の姿を見ても、球団の関係者としか理解しない。
相手は動きようがなかった。
試合が終わると、秦とユキは秘密の通路を通って一般客に混じり、ドームの外にでる。
ユキと秦は球場近くのホテルにもどり、室内で軽くトレーニングをする。
次の試合の対戦相手のデータなどをチエックし、テレビを見て眠る。
「梅里雪山のどこかに、未知の部族の村がある……機会をみて探してやらなければ」
空を飛ぶ夢は秦も子供このころによく見た。
だが、孤島にたどり着き、争い合い、絶滅するというような込み入った人々の話にまでは及ばない。
いったいどこからそんな夢がでてくるのか。
また、ユキが着ていた毛皮が、三万年前のものだと告げた動物学者の湯川博士が研究室から姿を消し、いまだ音信不通だ。
なにが起っているのか。
2
三試合めからは、記者席にも観客席にも白人が目立った。
アメリカの三大ネットワークやケーブルテレビ局なども、ニュースとして試合を放映した。
なにしろ世界でたった一人、プロの女性投手で160キロ越えの剛速球(ごうそっきゅう)を投げるのだ。
いろいろあったが、ユキがいちばん嬉しかったのは、見事な投球をよろこんでくれる秦だった。
同時に遠い記憶のなかで、秦と同じように、うむ、うむ、とばかりにうなずく何人かの男たちの影がちらついた。
しかし、いくら考えてもそれがなんなのかは分からなかった。
「ユキ、ユキ、ユキ。TG天使、ユキ、ユキ、ユキ。ゴーゴー、ユキ、ユキ、レッツゴー」
観客席から歓声が湧く。
ストレートは160キロ平均だ。
ストレートのほかに、ナックルもふくめ、どんな変化球でも投げられた。
3
突然、秦のケイタイが震えた。
滝川加奈子からだった。動物学者、湯川博士の秘書である。
秦は、湯川からの連絡をずっと待っていた。
湯川は、秦から預かった毛皮をアメリカと日本の検査会社に送った。
日本の検査会社に送った毛皮のDNA鑑定(かんてい)は不可能だったが、いちおう雪豹(ゆきひょう)に近い種という結論を得ていた。
しかし、アメリカに送った毛皮の年代測定のほうは、なんと三万年前のものという結果をだしたてきたのである。
三万年という年代とともに、毛皮に付いていた陰毛が問題だった。
アメリカの年代測定の技術官が、毛皮についていた陰毛を発見し、独断で別の専門会社に鑑定にだしたのだ。
その後、ユキの活躍とそれに伴う多忙な日々で、あっというま、時間がすぎた。
やっと連絡が取れたのかと秦はケイタイを手に、席をたった。
電話はすぐにつながった。
滝川は、『ああ』と溜息にも似たか細い声を漏らした。
『どうしたんですか。連絡があったんですね。湯川先生はどこにいたんですか』
『メイリーシュエシャン』
やっと聞こえるつぶやきだった。
梅里雪山という漢字がすぐに浮かびあがった。
目の前の空間に、白銀を戴(いただ)く中国奥地、雲南省の未踏の峰々がそびえた。
『そこに行ったっていうんですか?』
『湯川先生、そこで亡くなってしまいました』
か細い声が、秦の耳に追い打ちをかけた。
『亡くなった? 亡くなっただって?』
『凍死したんです。山で死体が発見されたそうです』
凍死? 秦の背筋が、ひんやりした寒気に触れたような気がした。
滝川は、外務省のスタッフや博物館幹部たちの事情聴取から解放された直後だった。
秦は、上野公園のレストランで滝川と待ち合わせた。
畑中にケイタイで『急用ができたので出かけます。ユキをホテルまで送ってください』と連絡した。
タクシーで上野の公園口に着き、すぐにレストランに入った。
滝川は、奥の丸テーブルに座っていた。
短くカットした黒髪に、簡素な白いブラウス姿だ。
レストランの隅に据えられた大型テレビが、ちょうど七時のニュースを放映していた。秦は立ちどまり、その画面に釘付けになった。
秦の姿に気づくと同時に、自分の頭上を飛び越えた秦の視線に、滝川も背後を振り返った。大型画面には、白い雪を積もらせた鋭角の峰が映っていた。
原稿を読む男性アナウンサーの声が響いた。
『本日、中国雲南省、ネパール国境にある梅里雪山(ばいりせつざん)で、男女三人の凍死体が発見されました。そのうちの二人は日本人で、一人は動物学者の湯川尚之(なおゆき)さん、もう一人の女性は、二人が日本語で話していたことから日本人らしいと分かりましたが、詳細は掴めていません。
残る一人は、アメリカ人の男性で、登山旅行者と判明していますが、三人がなぜそのようなところで事故に遭遇したのか、現在のところは不明です。日本人らしき女性の身元は、現地の日本総領事館で確認中です。
なお、梅里雪山は住民たちの間では神の山として崇(あが)められ、1991年には京都大学と中国の登山隊の合同チームが、登攀中に遭難して以来、現在も未踏峰の山として知られています。次のニュースです』
画面が変わったとき、我に返ったように滝川と秦は目を合わせた。
5-1 陰毛のDNA分析
1
秦周一は、東京ドームの二階の特別観覧席にいた。
ピッチングマウンドの正面の位置である。
ドームの天井にこだまし、外野席の応援団の声援が途切れなく続く。
ユキはたった三試合で、エースになった。
「ユキ、ユキ、ユキ。TG天使、ユキ、ユキ、ユキ。ゴーゴー、ユキ、ユキ、レッツゴー」
歓声がドームの天井に跳ね返り、耳をおおう。
応援団は、バックスクリーン前の中間エリアを越え、三塁側外野席、ビジターチームの応援席にまで迫っていた。
登板数はまだ三回だけだった。
だが、ピッチング内容から見ても対戦相手はたぶん負ける。
ホーム球場で二回、遠征球場で一回の三完投。
まだ一点も取られていない。
三試合で内野ゴロが三本、内野フライが二本、外野フライが一本だ。
また、ユキの一挙一動を観察する楽しみもあった。
白い頬を赤らめ、振りかぶってワインドアップで投げる柔らかなフォーム。
リリースの瞬間に手先から離れた白球が、矢のように一直線に走る。
そして、キャッチャーがかまえたミットにぴたりと納まる。
満足そうに微笑むユキ。
スポーツ新聞は、一面をユキの写真で飾った。
客はそんなユキが見よう、と球場にやってきた。
ユキはたまたま日曜の登板になったので、そのまま公式の登板日になった。
予想以上の人気を博したので、ファンのためにウイークディにもベンチに入った。
スポーツ新聞は部数を増やし、テレビは視聴率を二倍にした。
球場は、七十パーセントほどに落ち込んでいた入場者数を百パーセントに戻した。
「インタビューには応じない。プライベートはいっさい明かさない。謎のままであればあるほど注目度は上がる。みんな直接球場にユキを見にくる。あるいはテレビを見る。そして新聞を読む。いいね」
畑中は、手の平で短髪をぐるうっと撫で、うひひと笑う。
目論見が当たったのだ。
裏のほんとうのマネージャーで、父親である秦周一の名前は明かさない。
TG内部でも秦の名前を知っている者は、表のマネージャーである畑中だけだ。
球団関係者やチームメイトが秦の姿を見ても、球団の関係者としか理解しない。
相手は動きようがなかった。
試合が終わると、秦とユキは秘密の通路を通って一般客に混じり、ドームの外にでる。
ユキと秦は球場近くのホテルにもどり、室内で軽くトレーニングをする。
次の試合の対戦相手のデータなどをチエックし、テレビを見て眠る。
「梅里雪山のどこかに、未知の部族の村がある……機会をみて探してやらなければ」
空を飛ぶ夢は秦も子供このころによく見た。
だが、孤島にたどり着き、争い合い、絶滅するというような込み入った人々の話にまでは及ばない。
いったいどこからそんな夢がでてくるのか。
また、ユキが着ていた毛皮が、三万年前のものだと告げた動物学者の湯川博士が研究室から姿を消し、いまだ音信不通だ。
なにが起っているのか。
2
三試合めからは、記者席にも観客席にも白人が目立った。
アメリカの三大ネットワークやケーブルテレビ局なども、ニュースとして試合を放映した。
なにしろ世界でたった一人、プロの女性投手で160キロ越えの剛速球(ごうそっきゅう)を投げるのだ。
いろいろあったが、ユキがいちばん嬉しかったのは、見事な投球をよろこんでくれる秦だった。
同時に遠い記憶のなかで、秦と同じように、うむ、うむ、とばかりにうなずく何人かの男たちの影がちらついた。
しかし、いくら考えてもそれがなんなのかは分からなかった。
「ユキ、ユキ、ユキ。TG天使、ユキ、ユキ、ユキ。ゴーゴー、ユキ、ユキ、レッツゴー」
観客席から歓声が湧く。
ストレートは160キロ平均だ。
ストレートのほかに、ナックルもふくめ、どんな変化球でも投げられた。
3
突然、秦のケイタイが震えた。
滝川加奈子からだった。動物学者、湯川博士の秘書である。
秦は、湯川からの連絡をずっと待っていた。
湯川は、秦から預かった毛皮をアメリカと日本の検査会社に送った。
日本の検査会社に送った毛皮のDNA鑑定(かんてい)は不可能だったが、いちおう雪豹(ゆきひょう)に近い種という結論を得ていた。
しかし、アメリカに送った毛皮の年代測定のほうは、なんと三万年前のものという結果をだしたてきたのである。
三万年という年代とともに、毛皮に付いていた陰毛が問題だった。
アメリカの年代測定の技術官が、毛皮についていた陰毛を発見し、独断で別の専門会社に鑑定にだしたのだ。
その後、ユキの活躍とそれに伴う多忙な日々で、あっというま、時間がすぎた。
やっと連絡が取れたのかと秦はケイタイを手に、席をたった。
電話はすぐにつながった。
滝川は、『ああ』と溜息にも似たか細い声を漏らした。
『どうしたんですか。連絡があったんですね。湯川先生はどこにいたんですか』
『メイリーシュエシャン』
やっと聞こえるつぶやきだった。
梅里雪山という漢字がすぐに浮かびあがった。
目の前の空間に、白銀を戴(いただ)く中国奥地、雲南省の未踏の峰々がそびえた。
『そこに行ったっていうんですか?』
『湯川先生、そこで亡くなってしまいました』
か細い声が、秦の耳に追い打ちをかけた。
『亡くなった? 亡くなっただって?』
『凍死したんです。山で死体が発見されたそうです』
凍死? 秦の背筋が、ひんやりした寒気に触れたような気がした。
滝川は、外務省のスタッフや博物館幹部たちの事情聴取から解放された直後だった。
秦は、上野公園のレストランで滝川と待ち合わせた。
畑中にケイタイで『急用ができたので出かけます。ユキをホテルまで送ってください』と連絡した。
タクシーで上野の公園口に着き、すぐにレストランに入った。
滝川は、奥の丸テーブルに座っていた。
短くカットした黒髪に、簡素な白いブラウス姿だ。
レストランの隅に据えられた大型テレビが、ちょうど七時のニュースを放映していた。秦は立ちどまり、その画面に釘付けになった。
秦の姿に気づくと同時に、自分の頭上を飛び越えた秦の視線に、滝川も背後を振り返った。大型画面には、白い雪を積もらせた鋭角の峰が映っていた。
原稿を読む男性アナウンサーの声が響いた。
『本日、中国雲南省、ネパール国境にある梅里雪山(ばいりせつざん)で、男女三人の凍死体が発見されました。そのうちの二人は日本人で、一人は動物学者の湯川尚之(なおゆき)さん、もう一人の女性は、二人が日本語で話していたことから日本人らしいと分かりましたが、詳細は掴めていません。
残る一人は、アメリカ人の男性で、登山旅行者と判明していますが、三人がなぜそのようなところで事故に遭遇したのか、現在のところは不明です。日本人らしき女性の身元は、現地の日本総領事館で確認中です。
なお、梅里雪山は住民たちの間では神の山として崇(あが)められ、1991年には京都大学と中国の登山隊の合同チームが、登攀中に遭難して以来、現在も未踏峰の山として知られています。次のニュースです』
画面が変わったとき、我に返ったように滝川と秦は目を合わせた。