娘と蝶の都市伝説3
3-2 三万年前の毛皮
1
玄関ホーンが鳴った。
秦はパジャマ姿のまま壁の受話器をはずした。男の太い声が響く。
『わたし、読日スポーツ部の記者で畑中と申します。朝早く申し訳ありません。昨日帝王高校のグラウンドで、女性とキャッチボールしていた秦さんのお宅ですよね。ちょっとお話しがしたくて、お伺いいたしました』
昨日の別れぎわ、帝王高校の君島監督に名前と住まいを聞かれた。
秦と申します、近くに住んでいます、と返事をした。
あっさりした応答で、否定的な気持ちを表したつもりだった。
しかし、近くに住む秦は、地域の詳細地図を調べればすぐに分かる。
ユキコは昨日、帝王高校の練習用のグラウンドで、150キロ近い球を投げた。
それも、何気ない様子でだ。
そのときは、野球少年たちや帝王の野球部員、それに数人の学校の職員も見学していた。
グランドの片隅に、歓声があがった。
秦は、高校のときは野球部だった。
だから、ユキコがなにをしたのかがよく分かった。
女性が150キロもの速球を投げれば、だれだっておどろく。
しかも、20歳で器量もいい。話題性も抜群だろう。
ちらり、プロという言葉が頭をよぎった。もちろんそんな簡単ではない。
とにかく取材とやらを受けてみよう、と受話器を置いた。
ユキコは昨夜から、秦の家で寝起きをするようになっていた。
2
「実はユキコさんについて知っているのは、帝王高校野球部の監督である君島さんと私だけなんです。君島さんにもお願いしましたが、戒厳令(かいげんれい)を敷かせていただきました。ですから昨夜の女性は、カツラを被った男だったと君島さんに言いふらしてもらっています。ボールのスピードも、あのときのスピードガンが故障していて、130キロだったと。だからもう安心です」
畑中は、きれいに刈り込んだ短髪の頭をぐるりとなでた。
秦とユキコを前に、応接間に通されたときから、勝手に喋り続けている。
「ところで、どうやって150キロがだせるようになったのか、お伺いしたいのですが」
問われ、秦は一瞬、言葉に詰まった。
「私は高等学校のとき、野球部に入っていました。だからユキコとは小さいころから、キャッチボールで遊んでいました」
うまい嘘ではなかった。雪子が大きくなっていたら、そうしていたかも知れないと考え、話をつくろった。
ほう、と畑中は疑がい深そうにまばたく。
「筋肉がちがうんです。柔らかくてしなやかで、パワーがあるんです。足腰も常人よりはしっかり鍛えています」
頭上を鳥が横切る瞬間、握り拳大の石を矢のような軌跡で投げる。
ユキコの一族は、そうやって動物を捕まえていたのだ。
「とにかく150キロはすごい。君島さんが言っているのだから、間違いないです。しかもこんな美人だ」
ユキコが横目で秦をうかがい、はにかむ。
と、奥の部屋で、びびびっと鳴った。秦の寝室に置いてあるケイタイだった。
わたしが出る、とユキコが廊下にでていった。
「もし万が一、他社の取材だったら断ってください。根掘り葉掘り、くだらない話を書かれるのがおちです。わたしに任せてくれれば、万事うまくいきます」
畑中は、もう心の中でなにかを決めており、命令でもするかのように告げた。
奥の寝室からユキコが戻ってきた。
「国立博物館の湯川さんだそうです」
秦にケイタイを差しだした。
朝早く、国立博物館がなんの用だと受け取ると、静かな低い声が聞こえた。
『以前、毛皮の鑑定を頼まれました国立博物館の湯川です』
ユキコの毛皮を毛皮屋に持っていったが、動物の種類は不明だった。
毛皮屋は、国立博物館の湯川尚之(ゆかわなおゆき)博士を紹介してくれた。
動物学の学者で、野生が専門だった。
『この前お預かりした毛皮ですが、もっと詳しく調べようと思いまして、動物専門の日本の民間会社にDNAの検査を依頼しました。ついでにかなり古い感じがしましたので、念のため、生物の化石などを専門に扱うアメリカの炭素年代測定の会社にも検査を依頼しました。
そしてその結論ですが、日本のDNA検査のほうは鑑定不可能という結果でした。一応はネコ科の動物で、雪豹(ゆきひょう)の種に近いというところまでは分っているのですが、アメリカの炭素年代測定の方では、おどろく結果がでたんです。なんとあれは、三万年も前のものだというんです。ヨーロッパのアルプスで発見された最古の毛皮は6300年前のものですが、それよりもとんでもなくて、数倍も古いんです。
それも乾燥はしているが、今でも着られるように、しなやかで実用的であるというところが不思議なのだそうです。最近、シベリアの永久凍土で見つかった三万年前のナデシコの種が発芽したと学会で発表されていますから、三万年前という年月は決して非現実的な話ではありません。秦さん聞いていますか?』
初めは学者らしい落ち着いた口調だったが、しだいに早口になった。
いくらなんでも信じられない数字だった。
三万年前と言えばホモ・サピエンスが台頭すると同時に、ネアンデルタール人が滅びたとされる年代だ。
そして秦の頭に、毛皮をまとった女性云々の古文書(こもんじょ)の一文が閃(ひらめ)いた。
が、それは古文書を伝承した覚書にしかすぎないので、正確な記述ではないと、判断していた。
『ですから、もう一度測定をやりなおしてもらいました。でも結果は同じだったんです』
湯川の鼻息が、受話器をとおして聞こえてきた。
三万年前のものだとしたら、やはり今も衣服として着られる状態であることはあり得ない。三万年前のナデシコが蘇ったというが、植物性の硬い細胞組織と動物性の蛋白質の膜で守られた細胞組織とではまったく違う。
『とにかく、年代測定はもう一度やりなおしてもらいます。でも秦さん。あなたはあれをアジアの雪山で拾ったとおっしゃいましたね。いったい、どこの雪山で拾ったのですか?』
秦はどう答えようかと迷った。一瞬の沈黙があった。
ユキコはその毛皮を身につけ、同じ動物の毛皮で作ったポシェットを下げていた。
その中には偽物とされているが、中国の古代の宝物、青玉(せいぎょく)が入っていた。
これらの物証から、彼女は閉ざされた古代民族の村からやってきた可能性が考えられた。
そして、雪豹もどこかの村で飼育されていると推測された。
しかし、毛皮は年代測定で三万年前のものと出た。
飼っている雪豹なら、そんな年代は出ない。
代々に伝わる毛皮を着ていたとしても、三万年という数字は空想の世界に近い。
なにがどうなっているのか、分からくなってくる。
『秦さん、どうしました。どこの山で拾ったんですか』
秦の背後で記者の畑中が、目と耳で会話をうかがっていた。
秦は廊下にでた。
『中国の雲南省ですよ』
『ほーう。遠い所じゃないですか。でも、雲南省といっても広いでしょう』
雲南の地理に明るいような口ぶりだ。