娘と蝶の都市伝説3
「わたし、自分の名前、思い出せないんですけど、ときどき体験でもしたような変な夢を見るんです。はじめはジャングルの奥地で一本の大木が倒され、蝶が飛び立ちます。次は未開の民族が狩りをしながら楽しそうに暮らしている風景ですが、いつか文明人の手によって壊われるのではないか、という不安感が漂っています。そして海水の水位が上がって、島が沈むという嘘のニュースです。さらに人の争いで樹木が失せ、住民が暮らしていけなくなるという孤高(ここう)の島の物語です」
秦は、ユキコの故郷の夢かと緊張したが、どこかのだれかとの雑談から生まれた話のようでもあった。
「とにかく⦅大きな都市にいきなさい⦆と神様にいわれて上海に着いたら、そこの人がもっと大きな都市があるって。それは東京だって言うんです」
記憶喪失(きおくそうしつ)などの場合は、障害の原因を西洋医学でチェックし、その後で漢方の服用に入る方法もあった。ユキコは一時的な健忘症(けんぼうしょう)と思われるので、用意する生薬(しょうやく)は六種類。甘麦大棗湯、弓(くさかんむりに弓)帰調血飲第一加減、当帰勺(くさかんむりに勺)薬散、八味丸、八味丸+紅参、抑肝散・加陳皮半夏。いずれも神経症や各種の痴呆症などに抜群の効果がある。これを朝晩の二回、食事前に服用する。
「神様に告げられたって言ったけど、もちろん秦さんに会いにきたんです。もう国には帰りません。できれば秦さんの養子かなにかにしていただけませんでしょうか。書類も用意してきました。だめなら結婚してもいいんです」
ユキコは大胆な提案をした。内心あわてたが、冷静に対応した。
「でも、あなたは自分の名前も思いだせないんだろ。どうやって書類を作ったんだ」
上海で劉(りゅう)という男と知りあい、渡航手続きも全部やってくれたこと、そして日本語の教師も劉が紹介してくれたことなどをユキコは話した。
「費用はどうした。かなりかかったんだろう?」
ユキコはテーブルの脇のポシェットの口を開け、なかから皮の小袋、そして青玉(せいぎょく)の首飾りをだした。
「これは中国の宝物です。同じものが上海博物館にあります。どうしてこの袋にあったのかは知りません。上海の骨董屋で、同じものが高値で売られていました。青玉というんだそうですが、うまく作った偽物だそうです。それからこっちの小袋には金(きん)の粒が入っていました。これもなぜ入っていたのかは知りません。金は売ってお金にしました。こっちは本物でした」
秦は、直径二センチのブルーの玉が三つ連なる首飾りを手に取った。
透きとおった青い玉が金の鎖でつながれていた。
「あなたはやっぱり、古代から続いている王族の娘さんだ」
容姿やちょっとした仕草からしても、貧しい村から出稼ぎにきて、洞窟に迷い込んだとは思えないのだ。贋作(がんさく)の首飾りとしても、毛皮を着ていて、金(きん)などを持っていれば、やはり平民などではない。王の娘は言いすぎだったが、とにかく口にしてみた。
「わたしが、王族の娘?」
「きっとチベット側の山麓(さんろく)に、未発見の小さな王国があるのかもしれない」
そんな国は存在しないと分かっていても、秦は本当にありそうな気がした。
3
ユキコは旅行会社指定のホテルから、秦の自宅に近いホテルに移った。
大学病院へいき、精神科で検査をしたが、異常はなかった。
できれば頭が熱いときや記憶がなくなったときに来て欲しい、また『大きな都市にいけ』と告げられたのは、自分の欲望がそのように耳に響いたのではないか、と告げられた。
秦は、用意した六種類の漢方薬を朝晩に服用させたが、まだ日が浅く、記憶の回復はなかった。
東京見物に飽きたころ、秦はスポーツ用品店へいった。
そこで野球のグラブ二つとボールを買い、白金の自宅に案内した。
自宅の表側の店舗は閉鎖され、中の商品は甥(おい)の新しい店に移された。
商品の整理や発送の仕事をしてきた昔からの二人の使用人も一緒だ。
高窓から陽の射す空っぽの店舗の床に立っていると、遠く子供たちの元気な叫び声が聞こえてくる。
近所に公営のグラウンドがあるのだ。
グラウンドの隣は、高校野球でも名の知れた帝王(ていおう)高校のグラウンドだ。
部員たちが泥だらけで練習をしている。
秦は、公営グラウンドにユキコを連れていった。
公園の隅で、子供たちが野球を楽しんでいた。
「これから野球を教えるぞ」
野球をすると知ったユキコは、握った拳をえいっと突きあげた。
グランドに立つや、左手にグラブをはめたユキコが大きくふりかぶった。
スニーカーをはいた片足をあげ、やあと投げる真似をした。
野球の試合をビディオで観察し、投球フォームもしっかり覚えていたのだ。
「さあ、いこうか」
声をかけた。
待ってましたとばかり、いきなりユキコがふりかぶった。
びゅうっと風を切り、早速ボールが飛んできた。
かまえたグラブにぴたっと納まる。
おっ、と秦はつい声をもらした。ストレートだ。
しかしも、予想以上のコントロールだった。
テレビで見た有名選手のフォームとそっくりだった。
「ほんとかよ……」
秦はつぶやき、後ずさりした。
どんどん退っていって、公式の18メートルの距離をとった。
「さあこい」
ユキコは赤らめた頬でうなずいた。
大きく足をあげ、えいっ、とばかり放ってくる。
高々と片足を上げたので、スカートの裾(すそ)が腿(もも)の付け根までずれた。
殺風景な公営グランドに、なまめかしい一本の白い足が映えた。
「わー」
フェンス際で見物していた少年たちの喚声が上がる。
女がキャッチボールはじめたぞ、と全員で注目していたのだ。
同時に、ユキコの投げたボールがぶるうーっと、ふるえながら秦の頭上を通過した。
秦は首とからだをひねり、ボールを目で追った。
ボールはフェンスを越え、高校のグラウンドの隅まで飛んでいった。
てんてんと転がっていく。小さくてもう見えない。
「はえー」
「ちょーはえー」
少年たちは口々に叫んだ。
秦も腰をかがめ、すっげえーと声をあげそうになった。
ボールの行方を追っていると、校舎の庭に面した一階の教室のドアが開いた。
中から一人の男がでてきた。
男は校舎際の花壇にかがみこみ、ボールを拾った。
そうして、白い上履(うわばき)のまま、両腕を振ってまっすぐ駆けてきた。
ひきしまった体格の中年の男だった。
男は校庭を横切り、フェンスの内側に立った。
肩で息をつき、細い目でフェンスの外の秦とユキコを睨んだ。
その目を少年たちの方に向ける。
「このボール、だれが投げたか、知ってるか?」
「そこにいるお姉さーん」
全員がユキコを指差した。
髪の薄い中年の男は、眉間に皺(しわ)を寄せ、心持ち顔を突きだした。
「あなたが? 失礼ですが、あなたの娘さんですか?」
ユキコから目を移し、となりの秦に訊いた。
「娘がキャッチボールをしたいというので、投げさせたら、あっちの方まで飛んでいってしまいました」
男は、ほう、と顔で答え、音をたてそうに瞬いた。
「たまたま、飛んでくるボールを窓から見ていましたよ」
剥げた頭に浮かぶ粒の汗を、ハンカチで拭う。