Sandpit
剛は早口でまくし立てた。梨沙子は熱病に浮かされたように鈍った頭で、自分を見守る八つの目を見返した。その中で一番近いのはマリで、獲物を狙う鳥のように真上から見下ろしていた。
「好きにしていいで」
支えていた手が抜かれて、梨沙子はよろめきながら壁に手をついた。梶木は表情を消したまま、剃刀を掲げた。
「これでいきますか?」
梨沙子は答えることなく、自分の役割を理解した。自分は、この男を殺さなければならない。剛の言うことは筋が通っていて、椅子に縛られて半殺しになっていなければ、この男は自分を殺そうとするに違いなかった。
梨沙子は足を踏み出して梶木から剃刀を受け取ると、吹谷の前で立ち止まった。まだ、アスナと呟いている。哀れむ気持ちなんかで、殺したくはない。我妻が血まみれの手を洗面器に突っ込んで洗い、赤茶色に変色した泡を見つめながら言った。
「最初はえらい、威勢がよかった。もうちょっと脳みその詰まった運び屋用意したれや、言うてねえ。昌平くんも、こんなんに言われたないわなあ。こいつ、頭の中はスコーンってな具合に、空っぽやしなあ。こんなアホたれが、よう大役を……」
我妻は、まだ独り言のように血まみれの洗面器へ話しかけていたが、梨沙子は最後まで聞くことなく剃刀の柄を強く握りこんだ。足元に絡み付く鎖から抜け出せたのは、結局いつだったのだろう。信介と結婚したときも、昌平が育っていく過程でも、中林家の影は常にそこにあった。どこかで剛のことを頼っていたし、何かが起きたときにカウンターを放てる唯一の存在だという、確信もあった。
「名前、なんて言うの」
梨沙子が誰にともなく言うと、我妻は洗面器から手を抜き、腰を庇いながら立ち上がった。
「吹谷ですな」
「さっきから呟いてるアスナっていうのは、知り合い?」
我妻は首を傾げた。梶木も同じ角度でオウムのように首を曲げて、剛とマリは顔を見合わせた。梨沙子は何の確信も持てないまま、言った。
「わたしは、妹やと思う」
意識が混濁している吹谷の体が少しだけ動いたことに気づいて、剛が感心したように目を大きく開いた。
「当たりちゃうか」
吹谷が血まみれの口を開き、そこから言葉が流れ出してくる前に、梨沙子は剃刀の刃を首へ滑らせた。そのひと振りを待ち構えていたように血が溢れ出し、震える梨沙子の手が拒絶反応を起こしたように柄から離れたとき、吹谷は失血死した。タイルの上に落ちた剃刀を我妻が拾い上げたとき、剛は言った。
「なんや。そのアスナいうのまで、いてまうんかい」
梨沙子は振り返ると、首を横に振った。
「そんなヒマあるん? ちょっと、ビビらせたかっただけ」
剛は、吹谷の口の形から最後の言葉を読み取っていた。『やめろ』と言ったのだ。梨沙子は、吹谷が死ぬ直前に、次が妹の番だということを確信させた。
「ははは、鬼やこいつ。誰よりも怖いわ」
剛が冷やかすように言うと、梨沙子はよろけながら風呂場から出て、脱衣所で大きく深呼吸をした。舌の根までが、胃酸で満たされているように感じる。昌平が死んだことについて、何かを取り返すことはできない。しかし、同じ分の肉を何かから切り取ることはできる。呼吸が元通りになっていくにつれて、梨沙子は少しずつ顔を上げた。ずっと自分を動かしてきた原動力の一部を、今さら止めることはできない。それは、どれだけ綺麗な服や態度に包みこんだとしても、指先や目、笑ったときの表情に、元から組み込まれている。
中林家は、殺しの一家だ。
風呂場にいた全員が出てきたとき、剛が仕切り直すように手を打ち合わせた。
「よっし。ほな、マリはちょっと、キレイキレイ頼むわ。梨沙子、次のお楽しみは外や」
我妻と梶木の纏う空気が重くなり、梨沙子は抗議するような目を剛に向けた。この二人とは、ほとんど話したことがない。剛はその視線に構うことなく、続けた。
「GPS仕込んだ話、したやろ? あれが今のところ、一ヶ所で止まっとる。三人で、ノリノリでそこまで行け。道具もあるし、好きなだけ暴れてこいや」
我妻と梶木が先に脱衣所から出て、梨沙子は剛に背中を押される形で、あとをついていった。梶木はジムニーのリアハッチを開け、麻袋を掴み上げて中身をするりと抜いた。木と鉄が融合したような銃が現れ、梨沙子の隣に立った剛が言った。
「散弾銃や。こういうデカブツは、梶木に任せとけ」
梶木は銃身を短く切り詰めたブローニングオート5にバックショットを一発ずつ装填すると、麻袋に戻した。我妻は紙袋からコルトM1903を抜き取ってベルトに挟み込むと、ブリキ細工のような弾倉二本を手に持ちながら、梨沙子の気を済ませるように苦笑いを浮かべた。
「まあ、大層なもんではないですが。役には立つでしょう」
「お前も持っとけ。重いから、今の内に慣れとけや」
剛はそう言うと、紙袋の中へ手を突っ込んで、派手な象牙のグリップがついたS&WM37を取り出した。
「中林スペシャルを授けるわ。38口径や。相手に向けて引き金を引くだけで、五発出る」
梨沙子はそれを迷いなく受け取ると、ハンドバッグの中へ仕舞いこんだ。剛は歯を見せて笑うと、お菓子を渡すように丸めた手を差し出した。梨沙子が手の平を出すと、その上に弾を五発転がして、言った。
「オマケ。使い方は、梶木から聞け」
梨沙子がうなずいたとき、梶木がジムニーのリアハッチを勢いよく閉めて、空気が揺れた。そのブレーキランプが真っ赤に光り、エンジンがかかってマフラーから細く排気ガスが上り始めたとき、剛は梨沙子に言った。
「乗ったれや」
自分は今から、昌平の仇を討とうとしている。おおよそ現実感のない考えが頭に浮かんだとき、すでにひとりは殺したのだということを、梨沙子は思い出した。助手席のドアを開けたとき、剛が振り返って我妻に言った。
「アコード、どこ置いてますの」
「昼からやってましたもんで、長いこと停める思うて、外ですわ」
我妻は血が詰まって黒く変色した爪で、鼻の頭を掻きながら言った。梨沙子はその言葉が後押しになったように、梶木が待つジムニーの助手席に乗り込んだ。
「よろしくお願いします」
梨沙子が言うと、梶木はうなずきながらサイドブレーキを下ろした。
ジムニーが出て行き、我妻が歩きで車庫の外へ出て行くのを見届けた剛は、がらんとした空間にひとり残されて、銃が一挺残った紙袋を片手に持ったまま、スマートフォンをポケットから取り出した。昌平は夜のニュースでついに、『乗り捨てられたアウトランダーの隣で死んでいた男』として、取り上げられた。チンピラの抗争だと思われたのか、報道が随分後回しにされたのは、ありがたい限り。しかし、タイムリミットはある。
それまでに、全てを終わらせなければならない。
剛は地図アプリを立ち上げた。梶木が送ってきた座標は吹谷が自白したもので、例のスポーツセンター跡だ。そして、積荷に仕込んだGPSの位置情報も、ほぼ同じ位置を指している。
「おもろいのー」
そう呟くと、剛は首を左右に振ってぽきぽきと鳴らし、風呂場を掃除するマリの手伝いに戻っていった。
「で、塾が終わるのは夜の十時。自転車で急ぎ気味に帰ったとして、それはもう夜の十時半なわけです」