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オオサカタロウ
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novelistID. 20912
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Intentionally left blank

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 しまったと思ったときには、もう手遅れ。わたしは、足首の骨を折っていた。同僚に誘われてハイキングに出かけた日のことだ。突然入院することになって真っ先に頭をよぎったのは、抱えている案件のことだった。迷惑がかかると思って真っ青になったけど、課長は小言のひとつもないどころか、心配までしてくれた。同僚の中原君も、見舞いに来てくれたときに誘ったこと自体をひたすら謝っていた。何も怒っていないし、そもそも足を滑らせたのはわたしだ。頂上で見えた景色は綺麗だったし、むしろわたしが足を引っ張って、申し訳なかったと思う。
『会社は回ってるよね?』
 頭にずっと罪悪感が残っていたから、病室のカーテンをそろそろと開けた中原君には、まず仕事のことを尋ねた。進行中の業務については、とりあえず仮で引き継いでくれたらしい。
 すっかり日は暮れて、今は夜の八時。わたしは、そのときのことを思い出しながら、給湯室の蛇口からお湯を出して温度を調節した。そして、ぬるま湯で手を洗いながら息をついたときに、まだ足が痛いことに気づいた。正座しすぎて、骨と骨の継ぎ目が痺れているような感じだ。くすんだ茶色のタオルで手を拭き、さっき入れたばかりの紅茶をひと口飲んで、慣れた手つきはそこで終わった。何でも慣れだと言うけど、スマートフォンの操作には全然慣れることができない。メッセージアプリのアイコンに未読のマークが付いているのを見て、わたしは人差し指でアイコンを押さえた。送信者は神楽さん。いや、小百合ちゃん。二十五歳のわたしよりひと回り年下。今思えば、すごい偶然の出会いだった。
 わたしは紅茶を飲むにつれて鮮明になっていく記憶に、体を預けた。

****

 小百合ちゃんとの出会いは、わたしがあと一週間で退院となったときだった。手術を終えて向かいのベッドに引越してきた彼女は、右手首に包帯を巻いていた。第一印象は、その顔つきから体まで全てが本当に小さくて、子供だということ。でも、顔には細かい傷跡が残っていて、大怪我をしたということだけは理解できた。彼女は、最初は看護師に愛想笑いを浮かべていたけれど、案内されてベッドの上に寝かされ、カーテンが全て閉まるのを待ってから、静かに泣き出した。
 放っておけない。そう思ったわたしが彼女に話しかけたのは、その日の夜だった。今考えても、間が良かったと思う。松葉杖をつきながら休憩室にジュースを買いに行ったとき、ちょうど五つある丸テーブルの真ん中にいたのだ。そこだけ蛍光灯の光が明るく差していて、彼女は特に何をするでもなく、ただ椅子に腰掛けていた。わたしがコーヒーを買って、缶が大きな音を立てて受取口に転がったとき、彼女がこちらに視線を向けたのが気配で読み取れた。
 何かを必死に手繰り寄せようとしている。そう確信したわたしが振り向くと、彼女はすぐに目を逸らせた。一瞬だったけれど、まだ目が赤いのが分かった。ずっと泣いていたのかもしれない。だから、すぐ隣のテーブルに座るとき、わたしは大儀そうに『どっこらせ』と言った。見た目とのギャップが面白かったのか、こちらを見た彼女の頬は少し緩んでいた。手応えを感じたわたしは、大げさな表情で眉を上げると、自分の足を指差した。
「超いてえよ」
 その肩が少し揺れて、彼女、いや小百合ちゃんは、はっきりと笑った。わたしは怪我も含めて、自己紹介した。小百合ちゃんは、単刀直入に怪我の理由を尋ねてきた。その会話は、記憶に刻み込まれている。
「どうして、骨が折れたの?」
 小百合ちゃんは自分の足をテーブルの下でぶらぶらさせながら、言った。好奇心の勝った、くすぐったい視線。わたしは椅子に座ったまま、大げさに後ろにひっくり返るような身振りをして、答えた。
「山登りしててね、足が滑ったってわけ」
 小百合ちゃんはわたしのジェスチャーに笑いながら、前に飛び出すような仕草をした。正直、聞きたくなかった。わたしの間抜けなエピソードで終わらせたかった。何故なら、小百合ちゃんの怪我はわたしのとは決定的に種類が違う気がしたから。
「私は、交通事故。対向車線の車とぶつかった」
 わたしのほうが年上のはずなのに、自分がどういう表情をしているのか一瞬意識できなくなってしまったのを、今でも後悔している。
「お父さんが窓にぶつかったとき、すごい音がした。ニュースにもなったって」

****

 わたしはそのニュースを、退院してから調べた。運転していたのは神楽博。小百合ちゃんは助手席に乗っていた。車は、対向車線をまたいでダンプカーと正面衝突した。その右半分は、原型も分からないくらいに潰れていた。小百合ちゃんが骨折で済んだのは、運転席側にかなり偏った形で衝突したからだろう。
 紅茶を飲み終えてメールを開くと、くっきりとした文字が画面に現れた。
『下に着いたー』
 わたしは給湯室の窓から、下の道路を見下ろした。歩道が少し見えるだけの狭い窓からは、小百合ちゃんの姿は見えなかった。痛み止めが効いてきたのか、さっき感じた足首の痛みは、ほとんどなくなっていた。わたしは、短い返事を送った。
『すぐ下りる』

****

 初めて話した夜の翌日、わたしと小百合ちゃんはまた休憩室で話をした。自分だけコーヒーを飲むのは悪いと思い、小百合ちゃんにはりんごジュースを買った。何の話をしようと思っていると、わたしが持っている小さな本を目に留めた小百合ちゃんは、目を輝かせた。
「それ、小説?」
「ううん。なんだろう、ノンフィクション?」
 わたしがそう言って困惑したような笑顔を見せると、小百合ちゃんは体を揺すりながら首を伸ばし、中身を見たがった。わたしが手渡すと、ぱらぱらとページをめくって驚いたように目を丸くした。
「うわぁ、英語だ」
「そうなの。洋書なの」
「かっこいい」
 本当に短いやりとりだった。でも、小百合ちゃんはその本にとても興味を惹かれたようで、宝物をみつけたみたいに、あちこち角が取れてぼろぼろになった本を慎重に扱った。そして、最後の数ページに辿り着いた小百合ちゃんは、それを裏返してわたしに見せた。
「なにも書いてないよ」
「下に一行だけ、書いてあるよ」
 わたしの言葉に、小百合ちゃんは本のページを再び自分の方に向けた。頑張って読もうとしているのを邪魔するのは悪い気がしたが、わたしは先に答えを言った。
「それはね、空白のページですよっていう注意書き」
「そうなんだ」
 相槌を打った小百合ちゃんは、それでも合点がいかない様子で、そのページをじっと見つめた。わたしはその様子が可笑しくなって、コーヒーを飲みながら微笑んだ。
「あぶり出しじゃないよ」
「ひと目見て分かるのに、わざわざ空白ですって書くんだ。変なの」
 小百合ちゃんは、その本を書いたのがわたしであるかのように、答えを引き出そうとするような上目遣いで、じっと見つめてきた。わたしは視線の受け皿を作るために笑顔になると、言った。
「読む人には、それが本当の空白なのか、印刷の間違いなのかが分からないから。サスペンス物とかだったらさ、終わったと思っても、どんでん返しがあったりするでしょ。そのページがもし印刷間違いで真っ白だったら、最悪だよね」
「あー、そっか。自分だけ結末を知らないって、なんかやだな」