三峡ダム下見帳
三峡ダム視察経路とその状況
今回の視察の目的はダムの水位上昇により水没する村落や都市の住民が、どのような場所に移動させられるのか、その移転先に指定された居住区内の建物や周辺の環境整備についてこの目で確かめることである。
経路の説明
1:三峡賓館(宜昌市) 昨日借り上げたタクシーに乗り、午前8時20分にホテルを出発
1~4までの距離は約40㎞、2はその途中にある
2:水晶生産工場 運転手の案内で立ち寄る
3:タクシーからバスへ この地点からはダムサイト行きの専用バスに乗り換える
治安のためか理由はわからないが、身分の確認はとくになかった
4:ダムサイト ダム軸(中心)に立つ 標高185mの地点 眼下には船舶航行用の閘門が
建設中 締切り(ダム)の右岸側には開口部があり工事中の船舶の航行を可能にしている
このダムの左岸側にはすでに新城(移転先居住地)ができている
ここはダムサイト付近の水没家屋の移転先で、新城建設をダム工事に先行または併行し
て実施している
5:フェリーで渡河 右岸側の新城を視察するためタクシーを載せて長江を渡る
6:ダムのある場所は長江の右岸にある三斗坪鎮によっている、ここにも新しい三斗坪の
街(写真3)が建設中である
7:このあたりにできた新しい建物は主にダム関係者等の住居である
8:茅坪鎮高位部には新城ができており、まさに一大都市の建設である
この地が新県城(県庁所在地)となる。注)中国の「県」は市の下位にあたる行政区
したがってこの地の正式名は湖北省宜昌市秭帰県茅坪鎮になる
途中にある台地には既存の住居に混じって新しい家屋も建設されている
この場所(鎮)で昼食と中華鱒魚(長江のシーラカンス)を見る
現地視察の状況
ダムサイト左岸から見下ろした建設中の閘門が眼下に展開する。ダムに着手したのが1994年であるから、4年目の建設現場にあたる
左岸側に閘門があり、右岸側に水力発電用の設備がある。当時は船舶がどのようにダムを通過するのかわからなかった。大型船は閘門を小型船はエレベーターを利用するという。閘門は水位の調節により船舶を昇降させて移動させる。水位の調節は上流側の水圧を利用すれば自然圧で操作できる構造である。
移転予定地(水没鎮)の状況
視察をしたダムサイトを含む「秭帰県」では10鎮が水没対象村落である。そのうち7鎮が新しく建設された住区に引っ越すことになっている。残り3鎮はその地の高台に移動する。県(秭帰県)全体の水没面積は44,166畝(2,960ha)、家屋面積(277ha)、移民67,500人である。
これまで県庁所在地であった帰州鎮は、ダム上流の左岸に位置する。1900余年の歴史を持つ政治、経済、文化の中心地で面積77ha、人口2.3万人である。移転後には県都は帰州鎮から茅坪鎮へ移転する。
視察目的地の茅坪鎮は、1700余年の歴史を持ち面積206km2、人口5.3万人を擁する。水没による果園(茶、栗、油、花)は5,199畝(348ha)、移民は12,760人(茅坪鎮人口の1/4)で秭帰県最大の水没村落にあたる。
移転先建設現場の状況
秭帰県三斗坪左岸
三斗坪左岸の新城(ニュータウン)の建設はかなり早いうちから勧められたのであろうか、すでに入居が始まっているようだ。建物はほとんどが中低層の集合住宅で何棟も立ち並んでいる。意匠は平凡であるが頑丈さがうかがえる。現地を見る限り道路は広く電線等は地下埋設されてすっきりしている。道路を歩く人の姿が見える。
秭帰県三斗坪右岸
三斗坪右岸の移転地における建設中の建物である。7~8階の集合住宅で、各棟が密集しているので一棟ごとに意匠を変えている。住宅建設を先行させて生活基盤整備はそのあとに回されるようだ。移民を狭い場所に効率よく集めるには団地方式が最も優れているとみる政府のやり方が窺われる。農家なら団地では安気に住めないことは自明のように思えるのだが、うむを言わせぬ強制移住が待っている。
秭帰県茅坪
現在はすでに秭帰県の県庁所在地として新城の運営が行われている。現地視察当時(1997年)はこの地に県都を移すために「秭帰建委」が秭帰鎮に設置され、県都の移行がスムーズに行われるように監督指導がなされた。この地が新たな行政経済文化の中心地にふさわしい、そのような街づくりが求められたのである。
1997年当時、新城の大半が出来上がり、中央に中心街区、高台にも集合住宅が立ち並んでいる。既存の低層住宅も見受けられ、新旧一体的な整備が進められている。現時点では基盤整備や生活環境整備が終わり、秭帰県の新県都として生まれ変わったと思われる。果たして本当にそのような県都の光景を目にすることができるのだろうか。
作品名:三峡ダム下見帳 作家名:田 ゆう(松本久司)