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田 ゆう(松本久司)
田 ゆう(松本久司)
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いちじく賛歌

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6) この春に植えたいちじくの木の半数が年長組に成長し来年の夏にはもう卒園の見込みである。果樹園と保育園、同じ「園」を使っているのはそこに何か意味があるように思えるし、保育所では児童の生育過程が感じとれないような気がする。一般にいちじくは果実の仲間では成長が早くまた栽培管理も比較的容易な作物で育て安いと言われている。
年中組も来年の秋までには年長組と同じように卒園する仲間が出てくるだろうと思っている。保育園では年齢を基準にして卒園を決めているが現実には児童の進度差が存在し卒園の立場を逆にしたほうがいいような場合も当然出てくる。もちろん学力だけの話をしているのではない。
いちじくの結果(収穫)は2年目からということになっているが両側へ伸びた主枝には堅果がたくさんなっている。これらの堅果はこの秋までに熟し終えて、食べられるところまでには至らないので処分することになるが捨てるのはもったいない。スイーツが好きなので砂糖漬けなど昔ながらの甘露煮の調理法を調べているが、材料になるいちじくは熟す一歩手前のものが使われるようである。問題は現在枝に付いている堅果がそのような状態にまで至るかどうかであってあとひと月後の判断に委ねられる。
本来いちじくの収穫は主枝になる実ではなく主枝から伸びた結果枝になる実を取るのであるが、初年度は主枝と堅果枝の区別なく実がなるようである。成長の早い主枝には結果枝が数本伸びていてそこにも実を付けているものもあるが、それらは主枝の実よりもさらに小さく堅い。また、ミイラ果と呼ばれる収穫に至らない実は摘果処分すると「いちじく栽培こよみ」に書いてあるが、それがどんなものかは承知していないので現在付いている実はできるだけ有効に利用したいと考えている。

7)  生物はすべて意味があって生きているのだとすればそれは何か。生物学等によって明らかにされているはずだがここではいちじくの生育過程を通して考えてみたい。生きる意味について考えるのは人間だけだと思われているが他の動物がそのことを考えないとしても本能的に知っているかのようにその生涯を終えるのはなぜか。
生きる意味を考えることが死の意味を考えるのと同じだとすれば死の意味を考える動物は確かに存在する。例えば野生の象は年老いて死期を迎えると自ら死に場所を探してそこで草むす屍となり草原の一翼を担う役割を果たすことが知られている。まるで楢山節考を思わせるようにあとに残る子孫らが生き延びるための行動をとるのであるがこれこそが自然の摂理だとみなすなら、頂点に立つ人間の行動はその摂理を無視した方向へ加速的に進みつつあるように思える。
生きる力は生命力であって自然に備わるものと考えられるがその力には大小の差があることを認めざるを得ない。その差が何によるかは科学的に明らかにされたとしてもその差をなくすことはできないだろうと思う。クローン技術や遺伝子組み換え操作が導入されて疫病や病害虫に強くかつ収量の多い作物を生産することができるようになってもそれは極めて限定的なものであり常に危険を孕んでいる。自然の摂理に反する科学技術の発展は現状を一時的に改善したとしても将来に不安を抱かせるだけではすまず、とんでもない事態が起こる予感を払拭することはできないはずだ。
自然の摂理と呼ばれるものを人間の頭脳で改変することなど不可能であり非道理だと知るべきである。だとすれば如何ともしがたい生命力の差はそのものの個性であるとしか言いようがなくそれに従う以外に取るべき道はないように思う。自然の摂理に立てば生命の選択や延命治療についてもその意義や必要性についてよくよく考えるべき事柄であることは言うまでもない。

8) 生命力の大小は何によってもたらされ何を基準に計測されるのか。生物学的な究明は別にしてそれを実体を通して捉えるならば生物の生育進度を基準において生命力の強さを想定するのが現実的な方法である。いちじく畑において同じ条件下で植えた苗木に明確な生育進度の差が現れた事象からこれが生命力の差ではないかと判断したのである。
苗木自体の遺伝子情報、栽培管理のあり方や自然環境が個々の苗木に与える影響をひとまとめに包括して生育進度のみに現れた現象を生命力の強さとみる見方はブラックボックスを介して考察する方法に近いかもしれない。しかし今のところこの手法が代替的ではあるがよく説明できるやり方ではないかと考えているので採用したい。
今、台風18号の通過によっていちじくの木が大きく揺さぶられそのたびにいちじくの葉が舞い上がっていく光景を窓から見ている。いちじくの木は風に弱く防風対策が必須の地方もあると聞くが、枝は支柱に支えられているので倒れる心配がなかったが、思わぬ事態に少し動揺している。これも自然環境がなす試練でありいちじくの木はこれに耐えなければ生育に影響が出てくることになる。
翻って人間の生命力を云々する場合よくでてくる言葉が免疫力の強さである。医学的にあと三ヶ月の命だと宣告されても何年も生き続ける事例が報告されている。たいていの場合誤診であったと片付けられそうであるが必ずしもそうではない場合もある。免疫力がどのようにして回復できるのかまたは回復できないのか、その境目が個人差ということでは納得しがたいのではないか。
(強風によっていちじくの葉が舞いあがるような光景を見たと書いてあるが、よく調べたらそれは朴葉であった。近くの山林にある朴の木がその主で、いちじく畑にひらひらと舞い落ちてきたのである。常識から言ってもいちじくの葉が簡単に飛び散るようなことはないではないか。もちろん、枯れた葉は自然に落葉するが・・)