迷子は泣け(続・おしゃべりさんのひとり言121)
迷子は泣け
つい先日、男の子が行方不明になり、町内で大騒ぎがありました。
5歳くらいの男の子です。
ご両親は心配して警察に相談されましたし、地域の子供会にも助けを求められました。
僕が仕事から帰宅した時には、夜も更け10時くらいになっていましたが、その時ちょうど「見付かった」って知らせが来たところでした。
詳しく事情を聞くと、友達と近所の里山でドングリ拾いをして遊んでいたところ、足の遅い幼児は、グループから一人取り残され、道に迷ったようです。
8時頃から暗い山中を大人5人ほどで捜索したそうですが、手掛かりは見付けられず。
周辺の住宅街を車で見回っていた奥さんグループが、コンビニの前に立っている男の子を見付けたのだそうです。
この里山には公園が整備されていて、遊歩道もしっかりしているので、大人の感覚では迷うはずはないのですが、どうやら自分の町内に下りる階段が分らずに、一人で反対の町の方に続く坂道を下りてしまったそうです。その後は延々と家を探して歩き続けたようですが、誰にも助けを求めなかったのです。
でも暗い時間に幼児が彷徨っていたのに、誰一人声を掛けることもなく、・・・そう考えるとやるせない気分にもなります。
せめて大声で泣いてさえいれば、きっと助けの手が・・・発見された時、手にはドングリが詰まった袋を握ったままだったそうです。
(きっと頑張ったんだろうな)って想像しました。「泣かずにえらかった」って声をかけてあげたいですけど、(泣いた方がえらい)ってこともあると思います。
それらは子供目線で考えてあげないといけませんが、その子にも子供ならではの事情があって、大人が思ったようには考えが至らないってことありますよね。
それを察してあげる大人にもセンスが必要です。
まあ結果として見付かってよかったんですが、こんなふうに子供が突然いなくなったら、親はすごく焦るし、そばに付いていなかったことを後悔するだろう。最後に見た瞬間まで時間を巻き戻したくなるはずだ。
テレビニュースなんかでも、行方不明になった子供を大捜索しても見付からないって報道してることもあるし、何年か経ってから目撃情報を求めてビラ配りしてるニュースを見ることもある。
それでも手掛かりがないままなんて心苦しい。
犬や猫の迷子とは全然意味合いが違う。僕は昔飼ってたインコが飛んで逃げてしまって、「手乗りインコは帰って来るよ」って母さんが言ってくれてたけど、結局迷子のままだった。あんなもの幸せな思い出でしかなかったんだな。
では、子供の迷子事情について、僕の極端な例をご紹介します。
僕は小さい時から方向感覚には優れていたと思うので、どの方向に誰の家があって、お医者さんはそこで、公園がこっちで、商店街はあっちにあるって、一度行ったことのある場所はすべて把握している幼児でした。
自宅からかなり離れた、むしろ旅行先とかでも(子供の時ここに来たことがある)って正確に覚えています。地図なんか見てなかったのに、どの方角に連れて来られていたかちゃんと理解していて、(あの時の思い出は、あの地方辺りだな)って分かってるんです。
地図が頭に入っているのとはまた違う感覚で、鳥観図のように上空から見たイメージが頭の中に保存されているような感じです。
むしろ、10歳になる頃には、母さんとお出かけした場所から、ついでにどこかに寄るなんて時に、「こっちの道を行った方がきっと近道だから」と、通ったこともないショートカットコースを提案するような子供でしたから、両親もその感覚の鋭さにはよく驚いていました。
その頃、家から車で2時間くらいかかるおばあちゃんの家を、地図上で「ここらへんでしょ」って言い当てることも出来ました。
だから、僕は道に迷う友達が理解できませんでした。
「あの子はまだ小さいから」という理由なら解ります。でも僕より年長の子が、「そんな近くから帰って来れないなんて信じられない」ってくらいのことがよくありましたもの。
ルートを考えたらいくつでも思い浮かんでしまうのに、(一つも覚えてないなんて、どういうこと?)って不思議でしょうがなかったんです。
今と違って昔は、ちょっと迷子になっても親切な人が車で送ってくれたり、一人で歩いていても危険だってことはあまりなかったと思います。でも親はやっぱり心配だったでしょうね。
そんな迷子が見付かって家に帰って来た時に、よく目にした光景は、母親に叱られて叩かれる迷子ちゃんです。
やっとお母さんに会えて、『安堵の涙』と『叱られ涙』のふたつが入り混じった光景をよく覚えています。
作品名:迷子は泣け(続・おしゃべりさんのひとり言121) 作家名:亨利(ヘンリー)