父と子とアギャーの名の下に
「わたしはエリザベス・ヒガ。ベスって呼んで。だんなは日系アメリカ人。アメリカに行っていてたぶん戻ってこない。この娘は自閉症でピザ以外は食べない。コーラ以外は飲まない。あのクソ大佐からはお金をもらって、あなたをここに置いておくことにしたけど、仕事はしてもらうよ。買い物と洗車はあなたの最低の義務。大佐も了解済み。人間は仕事をすることで人間になるんだ。わかった?」
うーん、ひとはうまれたときからひとなのではないか?と思ったが、「わかりました。仕事がんばります!」と答えた。
朝起きると、顔を洗って水を飲んで、犬たちに餌と水をやり、ピザとコーラを用意した。黄色い太陽が凶暴な白い牙を見せ始めるころ、ベスと娘が起きてくる。彼らは無言で食べて飲み、自分の部屋に戻っていった。
ぼくはラジオのスイッチを入れる。放送教育という制度があって、ラジオを聞くことが一応は義務になっているらしい。学校に通えるなんて金持ちしかいない。建前と現実はあくまでも違っていて、そのことを政府はよく理解して抜け道を用意している。ということでラジオを聞き流す。
ジョセフ!仕事だよ。行くわよ!とベスに声をかけられた。
車に乗り込んだ。豪華な庭付き住宅を三つ訪れて犬と書類を預かった。そして向かったのは那覇空港の動物検疫所だった。
日本政府の動物検疫所は、犬猫の輸出入手続きをしているとベスが言った。
「動物検疫は狂犬病:レイビスの予防のために働いてるの。それは世界各国に有ってかなり手続きが複雑なの。理由があるから仕方ない。でも手続きがめんどうだからという理由で犬や猫を沖縄に捨ててアメリカに帰る人もいる。私が手続きを代行することで、たくさんの動物の命が助かって、私も手数料をもらえる。問い合わせの電話も多いから、覚えてね」とのこと。
轟音を上げて軍用機が次々に離発着する那覇空港の粗末なターミナルの事務所では、動物検疫所の職員が汗だくで英語で次から次へと訪れるアメリカ軍人に対応していた。順番が来て、あっというまに手続きが終わった。帰りの車の中で、ベスは言った。
「これからは一人でここに来ることもあるから仕事を覚えてね。動物検疫所の人たちとの人間関係はすごく大切。彼らはまじめで賄賂を受け取らないけど、彼らのしゃべっている英語を直してあげると喜ぶ。彼らは難しいことは勉強しているけど、ごく普通の会話は経験がないの。You bet(もちろん)とか、It’s up to you(それはおまかせします)とかごく普通の会話をタイミングよく教えるのよ。20年沖縄に住んでるけど、日本語は難しくて、覚えるのはあきらめた。動物検疫所の連中に英語を教える方が楽。それから沖縄の方言は日本語のスタンダードとはかなり違うことを知っておいてね」
「この書類にある「不名誉除隊」ってなんですか?」
「ああ、それは敵前逃亡した人。年金をもらえないし、退役軍人の恩恵が全然ないから、とってもかわいそうな人たちなの。ベトナム戦争は厳しいから時々いるよ」
年金ってなんだろう? ピザよりおいしいのだろうか?
次の日には軍用犬の引き取りのため普天間基地に連れて行かれた。軍用犬が一番多いのは海兵隊だ。グラウンドでは海兵隊の新兵たちが大声でわめきながらランニングをしていた。
自分の命はウンコです。オー!
仲間の命は大切です。オー!
命を捨てて助けるぞ。オー!
海兵隊はイカレテいる。父はこんな世界にいるのか・・・・・・。絶対にこんなところには行きたくないと思った。
父から手紙が来た・・・・・・。
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愛するジョセフへ
日本にようこそ。苦労を掛けてる。私も君の年齢の頃は貧しくて苦しかった。君もつらい目に会うかもしれないが、私の息子ならば乗り越えられる。事情があって今の私の生活に君を受け入れることはできないことを理解して欲しい。そして当分、私は君に会えない。私は本当に君を愛している。そして君は強い男の血を受け継いでいることを忘れるな。よく働き、周りの人の信頼を得て、次の10年後のことを考えてよく勉強するんだ。愛しているよ。
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「ああ困った、困った。」とベスが缶ビールを飲みながらぶつぶつ言っている。次はぼくに何かひどいことを命令するに違いない。「困った」のはこっちだ。
「ジョセフ!いまからフランスに行って頂戴!」
はあ?フランスってどこ?
「犬を運んで飛行機に乗せてパリの空港まで行って、すぐに帰ってくるの。お願い」
カーゴ(貨物)として成田空港で積み替えてフランスに輸出されるはずだった顧客の犬が、数日間行方不明になった。機材の故障で成田空港での乗り継ぎに失敗して飛行機が出て行ってしまい、自動的に1週間後の飛行機が予約されて、倉庫にほったらかしにされていたのである。動物検疫所職員が非公式にエージェンシー(通関代理店)にねじを巻いてくれた結果、犬は飢え死寸前で救出された。激怒した飼い主はいくらでも金を出すから航空貨物以外の方法で輸送して欲しいと言い出したのである。妥協案としてベスが考えたのは、ハンドラゲージによる輸送である。最優先でターミナルに送られるので、保税倉庫を経由して迷子になる可能性がなく、ミスハンドリングにも航空会社が直接対処してくれる。
ベスは仕事があるので見習いのぼくが犬を連れてフランスに行くことになった。機内食が食べられてうれしいが、どうすればいいんだろう。
次の日には那覇空港で動物検疫所から犬の検疫証明書を受け取り、那覇空港から飛行機に乗り、成田空港でエールフランス航空の便に乗った。
前の座席の背の高い男はちょいとした人物だった。痩せているのに巨大なエネルギーがみなぎっている感じだった。角張った顎の骨も鷲鼻もナイフで削り取ったようにシャープで、知性と決断力を誇示してしているようだった。近くにいるだけで鳥肌がたつこの人はいったいどんな職業の人なんだろう。騎士っていうのはこんな感じなんだろうか。離陸してからしばらくたつと、周りの人からざわめきが広がった。アテンダントが呼び出され、フランス語での会話が始まった。
隣席の男が状況を英語で説明してくれた。
「あの方は、なんとル・ブランさんだ。ツールドフランスって知ってる?自転車レースのフランス人エースだ。国民的英雄をエコノミークラスに乗せていいのかってわけで、ファーストクラスにグレードアップさせるべきだって抗議してるのさ。長旅で疲れてレースに負けたら責任とれるのかってね」
しばらくするとル・ブランさんはアテンダントに先導されてファーストクラスに移動していった。拍手が沸き起こった。
パリのシャルルドゴール空港に着いた。フランス語はわからないけどパスポートチェックはすぐに終わり、犬を探して1時間ほど空港内を探し回った。見つからなかったらどうしようとドキドキした。何か手続きでミスをしたのだろうか?
作品名:父と子とアギャーの名の下に 作家名:花序C夢