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自由と偽善者セミナー

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 この物語はフィクションであり、登場する人物、団体、場面、設定等はすべて作者の創作であります。似たような事件や事例もあるかも知れませんが、あくまでフィクションであります。それに対して書かれた意見は作者の個人的な意見であり、一般的な意見と一致しないかも知れないことを記します。今回もかなり湾曲した発想があるかも知れませんので、よろしくです。また専門知識等はネットにて情報を検索いたしております。呼称等は、敢えて昔の呼び方にしているので、それもご了承ください。(看護婦、婦警等)当時の世相や作者の憤りをあからさまに書いていますが、共感してもらえることだと思い、敢えて書きました。ちなみに世界情勢は、令和4年6月時点のものです。今回は、いつもにも増して、「歴史物語」、「歴史うんちく」の様相を呈しているので、ご了承ください。

                 プログラマ冥利

 あれは、パズルクイズといっていいのか、それとも、心理クイズというべきなのか?
「真ん中の四角の枠に、入る漢字一文字はなんでしょう?」
 などという問題で、上下左右から、矢印が引っ張ってあったり、そこから矢印が引かれたりして、それぞれで、漢字二文字の熟語を作れる共通の感じ一文字が何かというのを求める問題があるだろう。
 クイズというより、なぞなぞに近いものかも知れない。よく、朝の情報番組などの、天気予報の番組内で、
「頭のトレーニング」
 と称して、やっているのを見たことがあった。
 それは、大体、CM明けまでに考えるもので、
「いつもやっている人の、勝率がどれくらいなんだろうか?」
 と考えたりもした。
 一度知り合いがやっていると聞いた時、
「俺の場合は、自分が思っているよりも、少しあるんじゃないかって思うんだ。というのも、正解する時は続けて正解するけど、成功しない時は、これも果てしなく続くような気がするんだ。だから、全体を通して考えると、率は低いような気がする。だけど、冷静に考えると、今度は正解が続く時が頭をもたげて、そんな時は、結構正解率が高いと思うんだ。要するに、正解が続く時を考えるか、失敗が続く時を想像するかの違いでしかないんだよ」
 という、
「よく分からない」
 というと、
「だって、どっちかが、その時のベースになっているわけだろう? ベースというのは、直感で感じた最初だと思うんだよ。それが、途中から変わっていった時、変わっていく方に向かって、気持ちが傾いていく。上がっていく時であれば、思ったよりも高いと思うし、逆だったら、低いと思う。そういうものなんじゃないかな?」
 という。
 聞いていて、やっぱり分からない。だが一つ分かるのは、
「この人は、自分の思ったことを理論立てて話している時は、完全に自分の世界に入っているのだから、その考えに間違いはないと思うのだ」
 ということであった。
 それは思い込みなのかも知れないが、思い込みであっても、信憑性は高いのだ。
 その信憑性というのは、相手が、
「そう思い込んでいる」
 ということを、見ている人間もシンクロしているように見るというのは、あながち間違っている発想ではなく、自分が考えていることを相手も同じように考えていると感じることを、
「シンクロしている」
 というのだろう。
 それは、人間には、
「思い込み」
 というものがあって、
「人と同じことを考えている」
 と思うのも、一種の思い込みではないだろうか?
 そうなると、
「ただの偶然」
 というのも、思い込みであり、偶然が重なってくると、奇妙に感じるのだろうが、それだけ、他の人と考えがシンクロしているということなのかも知れない。
「シンクロとは、偶然の積み重ねだ」
 と考えるのも、おかしなことだと言えるのだろうか?
「理論的に考える」
 ということが大切なのだと思うのだが、ただ、その、
「理論的に?」
 というのがどういうことなのか、それが分からないと、解ける問題も解けないというものだ。
 今は、小学生くらいから、普通にプログラミングができるようになっている。
 昔であれば、アルファベットの、いわゆる、
「プログラミング言語」
 というものを、パソコンなどに打ち込んで、それを、機械が読み取れる、
「機械語」
 に翻訳することで、操作が可能になっていたものだ。
 さらに、パソコンが普及する前の事務処理言語として、
「COBOL」
 という言語があったというが、プログラミングだけでは動かなかった。
 それは、機械によって、互換性がないために、制御する言語も必要で、プログラムと一緒に制御言語まで自分で作成する必要があったのだ。
 まだ、パソコンなどという機会はなく、マウスなどというものもなかった時代は、本当に専門のプログラミングができる技術を持った一部の人しかできなかったものだが、パソコンが普及してきて、オフィスなどの、
「表計算なら、エクセル」
「ワープロ機能なら、ワード」
 と呼ばれるもので、表計算を自動で動かす、マクロのようなものは、専門知識をメーカーからの講習会などで身につけることなく、
「業務の一環」
 として、本を見ながらでも、できるような、そんな開発ツールが、格段に楽になるという先進的な技術を持ったコンピュータが開発されてきた。
 それが、OSと呼ばれるもので、
「パソコンの操作全体をつかさどる、大きなソフト」
 といってもいいだろう。
 ただ、これはあくまでも、開発ツールが、昔に比べて楽になったということであり、基本的な理屈である、
「プログラミングというものの考え方」
 が変わるものではない。
 そういう意味では、自分で練習をするのも大切なことであり、パソコン初心者が、人に教えを乞う時、教えてもらおうとしている人から言われるのが、
「習うよりも、慣れろ」
 という言葉であった。
 つまり、
「練習さえ重ねていけば、いくらでも上達はするし、仕事で使うくらいのソフトは、普通に自分で開発することができる」
 という、そんな時代がやってきたということである。
 つまり、それだけ、ツールは簡単になったのかも知れないが、基本は変わったわけではないということになるので、頭の固い上司などから見れば、
「今のようにパソコンが楽になったんだから、プログラミングなんて、今の若い者だったら、誰にだってできるはずだ」
 という勝手な思い込みをする人もいるかも知れない。
 当然、
「プログラミングというのも、一種の技術であるわけで、芸術と同じで、個人差もあれば、向き不向きもある」
 といえるだろう、
 したがって、スピードも違えば、完成度も、その人の性格によって、神経質な人もいれば、ずぼらな人もいる、その性格が、プログラムには、そのまま出るといってもいいだろう。
 それを考えれば、
「いくら簡単になったとはいえ、できる人とできない人がいるのは、当たり前のことだ」
 といえるだろう。
 それは、いくら機械が進歩しても同じであるので、物事に無限ということがありえないように、
「完璧という言葉はありえない」
 といってもいいだろう。
 プログラミングは、今も昔も、そして、言語が違ったとしても、基本は同じである。
作品名:自由と偽善者セミナー 作家名:森本晃次