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 キッチン台にもたれて宥人が鍋をあたためる姿を眺めながら、いった。
「同性同士の結婚に賛成の候補者はだれ?」
 宥人が手を止め、こちらを向いた。泣きそうな顔で微笑んだ。はじめておれに好きだといってくれたときと似た表情だった。おれが手を伸ばすと、宥人が握り返してきた。調理中に水に触れたらしくすこし湿って心地よい手の甲を指の腹で擦る。
「住民票を取るときにね」
 おれの指を見つめながら、宥人はいった。
「善くんのお母さんの現住所も調べてきた」
 指を擦る手を止め、宥人を見た。
「お母さん、再婚して、今は熊本に住んでるみたい。子どももふたり生まれたんだって。善くんの弟と妹」
 宥人の指を握る手に力をこめた。宥人が不安げな視線を向けてくる。
「勝手なことしてごめん」
 もう片方の手も添えて、おれの手を包みこみ、表情をうかがうように上目遣いで見つめてくる。
「怒った?」
「怒るわけない」
 腰に腕を回し、抱き寄せた。
「ほんとにごめん。おれ……善くんのお母さんに会ってみたいと思って。でも、利己的だった」
 宥人は俯いて、本心から反省しているようだったが、嫌悪感や抵抗感はなかった。これまで親のことなど思い出すことさえなかったが、宥人の家族と親しく付き合うようになり、どうしているのか気になることが時折あった。向こうがどういう人生を送っているのかは知らないが、結婚して子育てをしているのなら、おれが子どもの頃のような自堕落で破綻した生活では、すくなくともないだろう。おれに弟と妹がいるなら会ってみたいという気持ちもあった。
「もうすこし先になるとは思うけど、そのうちいっしょに会いに行こう」
 そう告げると、宥人はパッと顔を上げた。
「ほんと?」
「ほんとだよ。熊本で温泉にでも入って……」
 宥人が体をぶつけるように抱きついてきて、おれは言葉を切った。
「嫌われたかと思った……」
 おれの腰に腕を回し、きつく身を寄せて、宥人が大きく息をつく。胸が詰まった。
「おれが宥人さんを嫌いになると思う?」
「わかんないけど……」
 語尾が掠れた。おれは宥人の背中を撫で、頭頂部に唇を圧しあてた。
「休みを合わせて温泉旅行の計画立てよう。楽しみだろ?」
「うん」
 宥人は素直に頷いて体を離した。
「でもその前に引っ越しの計画から」
 また忘れそうになっていた。おれは宥人の独特のペースに乱されるのを心地よく思いながら、いいつけどおりにバスルームに移動した。

 シャワーを浴び、宥人がつくった朝食を食べて、身支度を整えた。
「LGBTフレンドリーな賃貸不動産屋さんってのが最近あって、同性でも契約できて、住みやすいようにいろんな配慮をしてくれるんだ。支援団体のひとが教えてくれた」
 アパートの階段を降りながら、宥人の声は弾んでいる。
「そんなに引っ越したいの?」
 宥人の後をのんびり歩きながら、はしゃぐ様子を好ましく眺める。
「たしかに狭いし宥人さんの職場からも遠いけどさ」
「それはいいんだけど……」
「あ、壁が薄いからか」
 宥人が耳まで赤くなる。
「善くんは気にしないかもしれないけど、おれはじろじろ見られて嫌なんだよ」
「おれのことはだれも見てこないけど」
「それは善くんの見た目が……なんていうか、いかついからだよ」
 なるほど、と思った。苦情や陰口すらも相手を見て優位に立てるかどうか見極めてからというわけだ。並外れた忍耐力と精神力を持つ宥人が一見してそう見られないように、おれのことを外見の印象から乱暴で粗野な男だと判断する者も多いのだろう。それは、まあ当たらずといえども遠からずといったところか。
「わかった。すぐ引っ越そう」
「ほんとに?」
「うん。宥人さんがいいと思う物件だったらどこでもいい」
「だめだよ。ふたりで決めないと」
 駅までの舗道を歩く途中、おれはふと足を止めた。宥人はそのまますこし先まで歩をすすめ、隣におれがいないことに気づいて踵を返した。
「善くん?」
 おれがぼんやり立ち竦んでいるのを見て、訝しげに眉を寄せる。
「どうかした?」
「いや……」
 行き交う通行人やそよぐ風や揺れる街路樹の枝を眺めていると、不思議な感覚に陥った。宥人が引き返してくる。
「なに?」
「いや、なんか……世界ってこんな感じだったかなって思って」
 口にした瞬間、後悔した。自分でも妙なことを口ばしってしまったと気づいていた。不審に思われたかもしれない。おそるおそる宥人の表情をうかがう。宥人は馬鹿にすることもなく、にっこり微笑んだ。
「行こう」
 手を差し出され、なにも考えずに握った。おれたちは互いに指を絡め、身を寄せあって駅まで歩いた。すれ違いざまに視線を向けてくる通行人はいたが、不躾に観察したり嗤ったりするような者はなかった。宥人がいうところの「いかつい」おれの見た目のせいかもしれないが、直接文句をいってくる者もない。
 不動産屋にしてもそうだが、十年、二十年前には、もっと生きづらい社会だったにちがいない。当事者になってはじめて、周囲の無理解や無関心に気づいた。今こうして好きな相手と暮らし、手を繋いで歩いていられるのも、宥人の前やその前に宥人とおなじように力を尽くしてきたひとたちがいたおかげなのだろう。
 宥人と出会って世界の見え方が変わった。おなじもののはずなのに、すべてがちがって見える。それはきっと単に恋のためだけではないはずだ。
 宥人の手を握ると、おなじつよさで握り返してくる。踏切の前で立ち止まった。電車が通りすがり車輪が線路を擦る音と警告音が混じりあう。この先にどんな未来が待っているのかわからないが、おれがこの手を離すことはないだろう。そう思った。
 あの非常階段で宥人が降ってきたように、だれにもおなじようにチャンスが降ってくるとは限らない。それでもおれたちは生きて、前に進んで行かなくてはならないのだ。
 道を遮り、反対側と隔てていた遮断機が持ち上がった。おれは宥人の手を取り、ゆっくりと一歩、踏み出した。


おわり。


作品名:EXIT 作家名:新尾林月