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「めちゃくちゃうれしかったよ」
 宥人はにっこり笑っておれの顔を両手で包みこんだ。額同士を擦りあわせ、微笑みあう。ついさっきまでネット上の醜悪なやりとりを眺めていたのが嘘のような穏やかで愛にあふれた時間だ。
 パーカーを脱がせると、宥人の表情が変わる。やさしい笑顔から熱を孕んだ表情に。
 週刊誌の記者は宥人を「魔性」と形容したが、その表現はあながち的外れでもない。しかし、宥人に責任はない。問題は対峙する相手のほうにある。だれかに好かれ、求められたい一心で心を尽くし、体を捧げる純真さにいつの間にか依存し、失う恐怖に疑心暗鬼になってしまうのだ。その気持ちはよくわかった。おれだって、気づいたら宥人のことばかり考えるようになっていた。そして手に入れた今も、この先もし他の男に心変わりされることがあったらと想像し、昏い感情が渦巻いている。未知の自分が首を擡げ、これまで体験したことのない不思議な恐怖心が芽生えていた。そうさせているのが宥人だという意味では、たしかに、作為的でないとはいえ、魔性といえるだろう。
 好きになりすぎて恐ろしいと宥人は泣いたが、おれもおなじだった。こんな気持ちになれる相手は宥人以外に見つからないだろう。
 おれの体の下で、宥人は身を反らして感じている。すでに熱中して、ネットのことも仕事のこともすべて忘れているように見える。実際に、こうしている間だけは忘れられるのかもしれない。もしそうだとしたら、おれも宥人の助けになれるわけだ。
「今日、仕事休みになったんなら、一日中できるね」
 おれの言葉に宥人は笑った。かわいい笑顔だった。おれは宥人の小柄な、しかしその外見からは想像もつかないほどつよい体をしっかりと抱きしめた。

 かすかな物音で目を覚ました。宥人が料理をしているらしく、味噌汁の匂いがする。食欲をそそる匂いだ。
 両腕を引き上げ、ベッドの上で全身を伸ばす。欠伸が漏れた。全裸で起き上がり、ボクサーパンツだけを履いて、キッチンを覗いた。
 宥人はおれのシャツを着ていた。サイズが大きく、腿まで隠れているが、下着を履いているだけなのか、白い脚が見えている。おれが起きたことにまだ気づいていないようで、こちらに背中を向け包丁で野菜かなにかを切っている。ゆっくり近づき、後ろから抱きこんだ。
「わ、びっくりした」
 宥人が声を上げる。
「包丁持ってるときは触らないでっていってるのに」
 文句をいいながらも包丁を置き、おれの腕に触ってくれる。首を捻り、おれの唇にキスする。
「おはよう。服、洗濯して畳んであるよ」
「おはよう」
 おれもぼんやりしながら答えた。宥人の首すじに鼻先を埋め、呻く。
「なんかすげえな」
「なにが?」
「起きたらメシができてて、服が洗われてて、好きなひとがいるってやばくね?」
「まだそんなこという?」
「しかもなんかエロい格好してるし」
 宥人が笑う。付き合いはじめて半年になる。宥人はネット民に場所が特定されたマンションには帰らず、この狭いアパートでいっしょに生活している。
 付き合う前と変わらず、宥人はおれのために食事を用意し、掃除や洗濯をしてくれていた。さらに、仕事上付き合いのある関係者に推薦するかたちで、新宿西口に新たにオープンしたラグジュアリーホテルのレストランの職を見つけてきた。おれは夜の店を辞め、昼の時間に働くことにした。昼夜逆転の生活で宥人と顔を合わせるために睡眠時間を削る必要もなくなった。
 ママもホステスたちも快く送り出してくれた。ただし、宥人と付き合ったことを報告すると、ネット上とは比較にならないほどのブーイングを受けた。三十代の独身かつ実家が太く持ち家があり性格がやわらかな宥人を狙っている女たちは予想以上に多かったらしい。半分冗談ではあったが、女たちの嫉妬の的になりながら、おれは後任の黒服に1か月かけて仕事を引き継ぎ、円満に店を去った。六本木を追われる身になったおれを拾ってくれたママには一生頭が上がらない。
 新しい職場にもすぐに慣れた。十代から接客業をして、客のあしらいかたは承知している。ウエイターとしての業務は黒服のそれに近いものがあり、まったくの異業種ではなかったこともあって、数カ月でどうにか動けるようになった。生活リズムも比較的短い時間で体に馴染んだ。シフト制だが、帰宅が深夜になることはない。水商売しかしてこなかったおれが朝早く起きて夕方に帰宅するなど、上京してきたばかりの頃なら想像さえできなかったはずだ。
「ごはんつくりたいんだけどな」
 宥人の腹の前で指を組み、首や髪の匂いを嗅いでいると、宥人が抗議の声を上げた。
「ちょっとだけ」
「だめだって。早くシャワー浴びてきて」
「いいじゃん。休みなんだしゆっくりしようぜ」
「……もしかして忘れてる?」
 宥人の口調が変わり、おれは動きを止めた。
「まさか。ちゃんとおぼえてる」
 宥人が振り返り、おれの前で腕を組む。こうなったらおれのほうが圧倒的に弱い。
「ほんとにおぼえてた。今日は不動産屋に行くんだろ?」
「絶対今思い出したよ……」
 呆れたようにいって、宥人は再びおれに背を向け、調理を再開した。
「お母さんが漬けたキムチ?」
 宥人の肩ごしに手を伸ばして、皿の上のキムチをつまみ食いする。
「そう。たくさんもらってきた。だれかさんが褒めすぎるから調子に乗ってしょっちゅうつくりすぎるんだよ」
 付き合ってすぐに宥人の実家へ挨拶に行った。ネットで動画が晒されて、すでに顔を知られている。こっそり付き合う意味はない。
 相手の親に会うなど経験がなく、すくなからず緊張したが、家族は盛大に歓迎してくれた。両親と妹たちがつくった料理を食べ、宥人の甥や姪たちと遊び、気づいたら家族の一員のようになっていた。宥人の性格から想像はできていたが、やさしく穏やかで愛にあふれた家庭だった。家族というものをほとんど知らないおれには眩しかった。
 民衆は飽きっぽいものだというが、あれだけの騒動にもかかわらず、1か月もするとだれも宥人の性的指向に関心を示さなくなった。まるでずっと前からカミングアウトしていたかのように、宥人はこれまでとおなじように弁護士としての職務をこなしながらメディアにも積極的に顔を出して弱者救済を訴えつづけている。むしろ、性的少数者の当事者として出演機会は以前より増加していた。
 個人情報を流布したユーチューバーや拡散したアカウントの特定と起訴も順調にすすんでいる。マオリは薬物の密売で実刑判決を受け、檻のなかだ。顧客のなかに例の元彼代議士も名を連ねていたそうで、週刊誌の記者も宥人に構っている暇はなくなったようだ。こちらは現役の政治家が違法薬物に手を染めたということでいまだ新聞やテレビを賑わせているが、宥人と関連づける情報は出てこなかった。
「選挙にも行かないとね」
「そうだった。いつだっけ?」
「来週まで」
 もうすぐ衆議院だか参議院だかの議員を決めるための選挙があるらしく、宥人に投票を勧められていた。投票場に行ったことは一度もない。それが当然だと思っていた。投票に必要な投票用紙の取得は宥人に任せていた。
「だれに投票したらいい?」
「それは自分で決めないと」
作品名:EXIT 作家名:新尾林月