circulation【3話】黄色い花
4.揺らぐ世界
暗く、冷たく、澄んだ湖の中。
昇る沢山の泡粒を、ゆらゆらと差し込む日差しが映し出す……。
その光景を綺麗だと思えたのはほんの束の間で、すぐに私の意識は凍えるような寒さによる痛みと、息苦しさに塗りつぶされた。
早鐘のような動悸が、思い切り酸素を取り入れたいと訴える。
しかし私の口と鼻は水に覆われていて……。
…………。
「あれ?」
思わず口に出す。
そして、自分の発した声にまた驚く。
あの時、デュナはなんて叫んだんだっけ。
そうだ「実行」って……。
私の肩から上は、水中にありながら空気の層で覆われていた。
服を着たままの体が沈んでいくのに合わせて、空気の層も抵抗なく私についてくる。
浮き輪の代わりにはならないようだが、息が出来るだけでもありがたい。
しかし、空気の層に包まれていたのは私だけだった。
両手でしっかり掴んだままのフォルテの手を、慎重に手繰り寄せる。
落ちた衝撃で離したりしてなくて良かった……。
虚ろなラズベリー色の瞳は、開いているにも係わらず、何も映していないように見える。
反対側の手には、まだ黄色い花が一輪握り締められていた。
小さな薄金色の頭をぐいっと自分の頭に寄せる。
空気の層は、難なくフォルテを受け入れた。
「フォルテ!」
コポコポと泡を吐き続けていたフォルテが耳元で小さく咳き込むと、
まるで寝息のような、小さく、規則正しい息が聞こえてきた。
そうか。幻惑効果にかかったフォルテは、起きながらにして寝ているようなものなのか。
無理に息をしなかったせいか、あまり水を飲んでいない様子にホッとする。
それでも現在、私達は湖の底へと、徐々に沈んでいた。
足を必死でばたつかせるも、たっぷり水を含んだ服やマントが重く纏わりついて
水面へ近付くどころか、ゆるゆると沈んでいるのだ。
服を脱げばいい事は分かっているが、この状態で脱げる物ではないことも分かっていた。
水の精に頼んで、水流を起こしてもらうのが一番だろうけれど、
私は水のイメージがあまり得意でなく……。
見上げる水面に、デュナらしき人影が見える。
こちらを覗き込んでいるようだが、もしかして外からではよく見えないのだろうか。
明るい光が降り注ぐ湖ではあったが、下を見れば暗く沈んだ闇色が広がっている。
底は、まるで見えなかった。
……デュナならきっと、私達の居場所が分かれば上からでも上手に水流を起こしてくれそうだよね。
他力本願な気がしなくもないが、こういう命がかかっている場面では、なるべく確実に出来る人に任せるべきだろう。
不得手を補い合う為のパーティーだ。と不甲斐ない自分を無理矢理納得させる。
左腕でしっかりとフォルテを抱き寄せると、手探りでマントからロッドを取り出す。
柄の部分が木でできているため浮こうとするところを、先端のガラスのような球体が重りとなって水中へ引っ張り込もうとするバランスで、なんだか非常に持ち辛い。
いつもの光の精霊に呼びかけてロッドの球体に光を集めると、湖の中が、不意に広がったような印象を受ける。
デュナに見えやすいように、と、ロッドを頭上に掲げようとしたその時、水の抵抗で濃紫のグローブがずるりと脱げかけて、力の抜けた指先からロッドが離れる。
あっ!!
ゆらゆらと、緩慢な速度で目の前を落下するロッド。
どうやら球体の重みの方が少しばかり柄の浮力を上回っているようだ。
ゆっくりと落ちるロッドへ、自分もまたゆっくりとしか手を伸ばせずに歯噛みする。
気付くのが遅かった。いや、考えが足りていなかった。
もっと下で受け止めようとしなきゃ、間に合うはずがない。
眩しい光を放つロッドは、僅かに私の指先を掠めると
底へ向かい音もなく沈んでいった。
フォルテを両手でしっかり抱きかかえて、その顔が空気の層から出てしまわないよう気をつけながら潜る。
水面へ向かおうとするのはあれだけ困難だったのに、沈もうとするのは簡単だった。
ゆらゆらと落下するロッドより、こちらの方がずっと早い。
暗闇しかなかった水底が、輝く光球に照らされて徐々に広がってゆく。
まだ底は見えそうにない。
一体どれだけの深さがあるのだろうか。
ロッドの少し先へと回って、水流を起こさないようにそっと捕まえる。
よかった……。
いくらか水に慣れた体も、大分深いところに来てしまったせいか
あちこちが重く締め付けられるように軋み始めている。
私でこうなのだ。フォルテの小さな体ではもっと辛いだろう。
一刻も早く水の外へ……。
デュナがいるはずの水面へ顔を上げようとしたその時、視界の端、水底で何かが光った。
いや、反射したのだろう。この光球に照らされて。
ここまでも小魚はチラホラ目にした。
そういう類だろう。と気に留めずデュナの方を見る。
光の差し込む水面は、遥か遠く彼方にあった。
デュナの姿も分からない程離れた私達を、デュナは見つけられるのだろうか。
フォルテを抱えていくら足をばたつかせても、やはり水面へは近づけない。
恐怖からか寒さからか、震えが止まらなくなってくる。
気付けば、私達を包んでいる空気の層が小さくなっている。水圧のせいだろうか。
息苦しくなってきたのは、酸素が足りなくなってきたためだろうが……。
ここはもう、自分で水流を起こすしかない。
覚悟を決めて、ロッドを水底へ構える。
失敗すれば今より酷い状況になる可能性も十分にあったが、このままではいずれにせよ命がないだろう。
「ラズ!!」
と、声が聞こえた気がした。
スカイの声だ。
慌てて辺りを見回すと、水に溶け込む青い髪の小さなクジラが大きな空気の層を纏って近付いていた。
水中でも案外音って聞こえるものなんだ。
ちょっと感心する。
スカイが纏っている空気の層は、やはりデュナの魔法だろう。
よかった…………。
あれでひとまず酸素を分けてもらって、スカイが居れば、そのまま水面へ向かう事も可能かもしれない。
「う……」
耳元で聞こえた小さな呻きにフォルテの顔を見る。
近すぎて見えにくくはあったが、眉を寄せて苦しそうにしているようだ。
ごめんねフォルテ、もうすぐ苦しくなくなるからね……。
心の中でそう謝ったとき、フォルテが淡く光った。
「え!?」
これだけ至近距離に居ても、眩しいというような光ではなくて、本当に、淡く、ぼんやりと。フォルテの体が光っている。
うっすらではあったが、これは、白い光……神様の光だ。
フォルテの額に、紋様のような物が浮かび上がる。
細々とした装飾の円に縁取られて、羽らしき物と、これは……歯車だろうか。
やはり、とてもうっすらとだったが、近くに居たおかげで辛うじて判別できた。
私が普段使う癒しの力は、花のような文様がでるような術があったりするが
この文様は一体なんだろう……。少なくとも、私の記憶にはないようだ。
スカイが、もうすぐそこまで来ている。
声をかけようと口を開きかけた途端、フォルテの輝きが、すうっと、まるで何事もなかったかのように消え去った。
作品名:circulation【3話】黄色い花 作家名:弓屋 晶都