元禄浪漫紀行(51)~(57)【完結】
そんなある晩、夢を見た。それはいつもと違っていた。
俺が夢の中で目を開けると、そこは自室の布団で、布団の足元におかねが座っていた。だから俺は、ただ目が覚めただけで、おかねがやっと迎えに来てくれたのかと思った。でも、おかねが胸に抱いている者に、少し驚いた。
黒い猫がおかねの膝の上に座り、じっとこちらを見詰めている。真っ黒な体に薄金色の目が浮いて、瞳がきらきら光る猫だった。
おかねは目を伏せ、躊躇いがちにこんな話をする。その声は、暑い膜の外から聴こえるようだった。
“お前さん…どうか達者で暮らしておくれ”
それは、いつもの夢で見る、俺の都合で作り出される“おかね”ではない気がした。彼女は自分の意思でここに来てくれたような気がした。
おかねは横を向いて畳に目を落とす。
“あたしもさみしいけど…無茶をしないでおくれ”
そう言っておかねはこちらを振り向き、俺の目をじっと見る。唇は涙にわななき、彼女は必死に泣くのを堪えていた。
“さあ。この子を私と思って可愛がって、もう一度生きとくれ…”
おかねがそう言って、猫を二度三度撫でてから両腕を広げると、黒猫はぴょんと飛び降り、俺の布団へちょこちょこと寄ってくる。
俺は一瞬猫に気を取られ、手を伸ばしかけたが、もう一度顔を上げて布団の足元を見ると、そこにはもう誰も居なくなっていた。
俺は、息苦しさから目を覚ました。息が切れていた。
“悪夢ではないのに…それにしても、なんて夢だ。おかねの代わりに、俺は猫が欲しかったんだろうか?そんな事はないはずだ…”
俺は、また自分でこさえた幻の夢で、今度はおかねの身代りを誰にするのかを探し始めたのかもしれないと考えていた。
“猫を女房の代わりになんて出来るはずもないし、猫なんて、簡単に捕まえられるものでもないだろう…”
でも、俺が起きて布団に入ったままで考え回している内に、目の前に細長い黒い何かが伸びてきて、俺の顔にふにふにした何かを押し付け始めた。
「な、何…」
それは少々鉤爪のような物を持ち、柔らかい孫の手のような感じだった。そこで俺は、何かが胸の上に乗っているから息苦しかったのだと、やっと分かった。
俺は慌てて起き上がり、その正体を確かめた。そして驚愕する。
「えっ…!?」俺はびっくりして声を上げた。
そこには、さっきまでの夢でおかねが抱いていた姿そのままの、猫がいた。黒い猫だ。
薄金色の目がこちらを向いているのだけがかろうじて分かる、漆黒の体毛と、ちょこなんと座る猫らしい振る舞い。猫は、「なーお」と鳴いてみせた。そして、僅かに笑ったかのように見えた。
玄関は閉め切ってある。窓も開いているはずがない。だから、ここに猫が迷い込む訳もない。俺はそう考えて不気味に思っていたし、“あの夢は本当だったんだ”と思うと、突然に自分が怪談の中に放り込まれたように、薄気味悪かった。
「なーお、なーお」
猫は、初めて目にしたはずの俺にすり寄り、俺が布団についた腕に体をこすり付ける。それから、俺が着ていた甚平に爪を引っ掛け、俺を布団から引っ張り出そうとした。
“食事でもしたいのかな。確か鯖が一切れまだあったはずだけど…”
俺はそう考えて立ち上がる。すると、猫はとととっと部屋を飛び出し、俺がキッチンまで降りて行くと、もう冷蔵庫の前に陣取っていた。
“猫は食事の隠し場所を知ると開けるようになると言うけど…賢い奴だなぁ。それとももしかして、本当におかねの生まれ変わりだったり…?”
俺は無言で冷蔵庫の冷蔵室を開け、薄明るいチルド室から、鯖の切り身の残りを取り出した。
「なーお」
猫は鳴いて急かしたけど、もしかしたら寄生虫などが鯖の中に居るかもしれないし、俺は一応、魚焼きグリルで火を通してみた。
猫は、魚焼きグリルから、ぷち、ぷち、と鯖の脂が跳ねる音を聴いているように時折耳をぴくっと動かし、ずっとグリルの下から離れようとしなかった。
「焼けたら食べられるからな。ほぐして冷ましてやるよ」
俺は、そう言った後で、よっぽど「おかね」と呼びたかったけど、その場ではやめた。
作品名:元禄浪漫紀行(51)~(57)【完結】 作家名:桐生甘太郎