Static
おばあちゃんの声。私は大森さんの真後ろに立って、顔を出した。大森さんに手を引かれながら降りてきたおばあちゃんは、お母さんの顔と家全体を見回してから、私に気づいた。私が口を開きかけたとき、お母さんが先回りするように言った。
「京佳、帰ってきたのよ」
私が相槌を打つみたいに笑顔を見せると、おばあちゃんは目を細めて微笑んだ。
「あらー、遠くからはるばる」
「おかえりなさい」
私はそう言って、スライドドアを閉める大森さんに一礼すると、家に上がった。おばあちゃんの『部屋』は居間の一区画で、色んなものが取りやすいように工夫された空間がある。おばあちゃんは、お母さんに支えられながらそこに腰掛けると、私の目を見て言った。
「わざわざ来てくれて、ほんまねえ」
柔らかな方言は懐かしいけど、その言葉はどこか宙に浮いている。おばあちゃんからすると、私はまだ『遠くから来た人』から脱せていない。
「京佳だよ」
私が自分を指差しながら言うと、おばあちゃんはうなずいた。
「それは分かっとるよ」
お母さんが笑い出し、お父さんが声を出さずに笑ったのが空気の揺れでなんとなく分かった。晩御飯の用意を手伝って、会社と電話していたお父さんが小さくため息をつきながらソファにもたれかかり、高校時代までは自分も参加していた食卓に三人分の料理が並んだ。
「おばあちゃんは?」
私が訊くと、お母さんは少しだけ目を伏せて、言った。
「別メニューだよ」
おばあちゃんが手招きしていることに気づいて、お母さんは手を拭きながら小走りで傍に屈みこんだ。私がお茶のコップを並べていると、おばあちゃんは私を指差しながら口をぽかんと開けて、言った。
「あれ、京佳よ。京佳が帰って来とるね」
お父さんが声に出さずに笑った。私が目を合わせると、諦めたようにうなずいた。その表情を見ていると、いかにも中町家って感じがする。この家の中で何かを間違えれば、光の速さでオチにされる。その毒気は弱くても、毒には変わりない。それが少しずつ蓄積していって毒と感じなくなった辺りで、私は今の性格に向けて急激に変化していったと思う。
お母さんが私の向かいに座り、お父さんが缶ビールの蓋を開けたとき、私は言った。
「ねえ、クロスケってさ。どーなってんの?」
二人の目が輝いた。ダイニングは二階の私の部屋と同じように黒沢家に面していて、今までずっと、壁を挟んだすぐ隣で散々悪口を言い合ってきた。そして今日は、リサイタルの日だ。
「去年から、フランケンは入院してる。糖尿らしい」
「家ボロボロだけど、そんな太る余裕あるんだね」
私は、ほとんど直感でお父さんに相槌を打った。お母さんが口角を上げて微笑み、お父さんは口元を隠すようにしながら、声の音量はそのままに言った。
「金がないやつほど、粗食だからな」
「もう、そういうことは言わないのよ」
お母さんはそう言って笑っているけど、フランケンと蜘蛛女を命名した張本人だ。私が長男のことを『ねずみ小僧』と呼んだ日は、鍋のカレーを混ぜる手を止めてハイタッチした。
「蜘蛛女は?」
私が言うと、お母さんは気まずそうに瞬きを繰り返した。
「二年前、お亡くなりに……」
「えー、そんなことあったんだ」
私の軽い相槌で、気まずさがお父さんにまで伝染したみたいに、空気が重くなった。
「自殺なんじゃないかって言われてるんだけどね」
お父さんの煮え切らない口調に、私はプチトマトを口へ放り込みながら、目を大きく開いた。
「分からないんだ?」
二人の顔を交互に見ていると、笑い出しそうになる。こんな神妙な顔ができる人たちだったなんて。プチトマトを頬の中で転がす私を見て、お父さんが睨めっこに負けたように笑い出した。
「自分の吐いた糸で絡まって、くたばったんだろ」
「ひどい」
お母さんがそう言いながら笑った。私がいるから、咄嗟に『よそ行きの顔』をしたのかもしれない。
「まあ、お隣さんとはいえ、中で何が起きてるかは分からないでしょ。とにかく、家の中で亡くなってたのよ。事件性なしって警察の人は言ってた」
「そんなの、ねずみ小僧がやったんじゃん」
私がプチトマトを飲みこんでから言うと、お父さんが笑った。
「飛躍しすぎだろ。殺人事件になっちゃったよ。ねずみ小僧も最近は見かけなくなったな。だから横は空き家だ」
「先週、解体業者の人が親戚と来てたわ。いよいよ取り壊しかもね」
お母さんの言葉に、私は驚いた。黒沢家にも親戚がいたのだ。結論が出たようにそこで話題が切り替わり、今度は私の仕事の話になった。お父さんのアドバイスは『変なあだ名をつけたりする上司がいたら、それはパワハラだぞ』で、お母さんは『噂話はいつか自分に返ってくるわよ』。でもそれって、ついさっきまでの私たちそのまんまだ。
晩御飯が終わって、何回かおばあちゃんに『京佳が帰ってきてる』と驚かれ、お風呂に入って歯磨きまで済ませたところで、玄関の方を何気なく見てると、少しだけ体を起こしたおばあちゃんが言った。
「おあいそなしで~」
私は思わず肩をすくめた。絶対に刺されるはずのない場所に、何かが入り込んだような感覚。勝手に懐かしんで帰って来たけど、やっぱり私は一旦外に出た人間だ。おばあちゃんは私のことを客人だと思っているのかもしれない。
「まだ、帰らないかも」
振り返って私が言うと、おばあちゃんは首を傾げた。その表情には険しさが少しだけ残っていて、昔の面影もある。私と目が合ったままなのが気まずいみたいに、おばあちゃんは呟いた。
「京佳、ワチャコが寂しがっとるよ」
「おばあちゃん……、ワチャコは死んだよ」
私はそう言うと、二階に上がった。どこでもいいから、この家にまつわる記憶にすがりたいけど、タカは例の通報が最後の記憶になっているし、お父さんとお母さんは私をまだ『キョウちゃん』と認定してくれていない。さっきだって悪口を言い合う前に、無言の確認作業があった。そしておばあちゃんはあの調子。だとしたら、残されたのはワチャコの記憶だけだな。下宿先が決まって実家を出るとき、不思議と寂しさは感じなかった。おばあちゃんがいるし、私がいなくても夜に爪を研ぐ習慣は消えないだろうから。でも、私がベッドの下へだらりと足を伸ばしたときのささやかなコミュニケーションは、斜に構えた者同士だけに許される挨拶だったはずだ。
「会いたいよ……」
柄にもなくそんなことを呟いていると、あまり眠れないまま次の日が来て、朝ごはんを食べたら二度寝してしまった。解体業者の話し声で目が覚めたときは、まだ朝の十時だった。
「うるせー……」
昨日の夜、愛する飼い猫と再会したがっていた私は、もうどこかへ消えていた。解体業者は黒沢家の中で色々と打ち合わせをしているようだけど、こんなに響くものなのだろうか。私は体を起こして薄い掛布団をはねのけると、一階に下りた。おばあちゃんはデイサービスに行ってしまったし、お母さんは休日出勤。お父さんはさっきまでいたけど、ゴルフ用品店を友達と回る約束があるらしくて、古風な書き置きがあった。