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橋のたもとの三人の女

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 沢村にとって金属バットは呪われた品物であると同時に身を守るための道具だ。正気を保つための気付け薬で、けれども振るっている限りは正気からは程遠い。言われた通り離れた所で沢村がバットを振るう姿を眺めながら、私は沢村のフォームに見惚れていた。高く振り上げた所から、一気に地面へと振り下ろすときの筋肉の動きが、もう日も暮れて光源もあまりない夜の闇の中であるのに鮮やかに映る。背の筋肉が一瞬、爆発するように盛り上がって、そのまま消失する。そう思ったころ本体は今までよりもわずか下の方向へ移動しており、いつの間にか腕は振り下ろされていて、黒いバットの先が生き物のように湯の中からはねた。当然、青白い顔の幽霊は出ない。私が回収した時点でいどりの頭蓋骨は陥没していたから、もうこれ以上砕かなくてもいいような気がしたが、必死の形相の沢村を止められそうな気はしなかったし、何より、紅潮した沢村の頬が素振りに相まって美しかった。沢村の方は早川美夜子のときのように化けて出ることのないように、ここで念入りにすりつぶしておかなければと思っているのかもしれない。一人出ようが二人出ようが大した変わりはないのに、と私は思った。止められる気はしない。むしろ止めようとも思わない。沢村のバットを振るう姿を見るのが好きだったから、可能であればいつまでも見ていたかった。もちろん帰りがあまり遅くならない程度でという但し書きがついているが、それにしても沢村のバットの振り方は美しい。日は完全に入り果てて、額のライトを鬼の一つ目の様にぎらつかせながらいどりの身体を砕こうと躍起になっている沢村は、心なしかいつも管理人小屋の前で素振りをしているときよりも一層美しく見えた。時折短い悲鳴を上げてバットを乱れ打つ姿も、その下で横たわっている田中いどりも、月が作り出す影の中では何にもまして鮮やかに見えて、私は手元のライトを消す。自分のためにしつらえられた水槽の中で田中いどりが横たわっていた。早朝から放課後まで沢村のバットで打擲を受けて既に原形をとどめていなかった筈のいどりは、河原の湯に浸されて今や完全に元の美しい少女の姿を取り戻していた。血だまりの中で絡まっていた黒髪も、くしけずったように湯の中に流れて月の光に負けじおとらじと霊妙な光を湛えていた。そこに容赦なく沢村のバットが降り注ぐ。華奢な肩が打撃をもろに受けて崩れ、バットの形に胸郭が陥没し、えぐれた断面から覗く内臓が色の付いた液体を湧出させていた。打擲。打擲。打擲。あり得ないほど沢村の肩がふくらむ。金棒と化した金属バットが死体を打つと、衝撃を受けた身体の血液が逃げ場を求めてそのまま血管を突き破ってぱちんとあっけない音と共に赤くけぶるのを、和久由の煙がそれを覆って一瞬の後にはまた元の姿に戻った。疲れ以上に、追いつめられた表情の沢村が再びバットを構えなおす。
 多分、放っておけば沢村はいつまでも殴打を続けているのだろうし、田中いどりだったものは田中いどりに戻ろうとして何度でも再生を続けるのだろう。何がそうさせるのかは知らなかったが、現に起きていることなのだから仕方がない。沢村も少し休んでもよさそうなものだが、休むことなく撲殺を繰り返しているところからすると、疲れを知らないのかもしれなかったし、既に疲れを知覚する身体でもないのかもしれない。ここは地獄だ。私はそう思いながら河原の石に腰を下ろした。早川美夜子は愛する男の姿見たさに地獄をさ迷い歩いている筈だったが、相まみえることはかなわなかった。沢村は何度も再生する亡者を砕き続けることに忙しい。田中いどりは未だ死に続けていた。到底生きた人間の来る所ではない。
 河原は硫黄の煙で温かかった。早川いどりが蘇り続けているのはもしかしたら和久由の河原に流れる湯のせいかもしれない。温泉の湯で死人が生き返る話を聞いたことがあった。そうでなくても温泉の湯には大抵の疲れをいやす効能がある筈だ。沢村が疲れもせずにバットを振り続けているのもそのせいだろう。沢村のスイングは見飽きることはなかったが、正直なところ、少々退屈していた。何よりも居場所がない。そもそもここは死者が行く場所だ。少しだけ考えて、視界の隅に見えた橋のたもとに移動する。そうしてライトをつけると、それを振り回しながら沢村の名をを呼んだ。
 ようやく顔を上げた沢村の顔が凍り付く。
 早川美夜子が沢村の全てを愛していたのとは裏腹に、私は沢村の素振りをする姿だけが好きだった。田中いどりはどちらかと言えば、自身の美しさに見合うものとして沢村の美しさを要求していたが、少なくとも私は田中いどりほどの容貌を持ち合わせてはいない。沢村は沢村でいてほしかったが、願わくばあの美しいフォームでバットを振り続けていてほしかった。そこに昼も夜も死も眠りもない。手元の亡者がただの美しい少女で、自分を悩ませていたあの薄気味悪い亡霊ではないことにようやく気付いた沢村が、その一瞬だけ正気に立ち返った頭で橋のたもとに立つ女の姿を見た。
 橋の傍らにいないのであれば、それは早川美夜子の亡霊ではない。
 橋の傍らにいるのであれば、それは早川美夜子の亡霊である、
                                  ――というのは既に誤りなのだが。
 雄叫びを上げて突進する沢村の、スイングを印象付けるのは流れるような体重移動だ。今いた場所をあっという間に後ろに流し、河原の石を踏んで跳躍する。その間に手にしていたバットは大きく振りかぶられていた。打ち据える場所を正確に見定め、打ち漏らす気配はどこにも見えない。にやりと笑ったところで沢村にはもう、私のことなどわからないだろうから存分に笑う。
 何の害のない他者にまで怯えるようになっていた沢村が、手頃なリハビリ相手に私を選んだことは知っていた。あまりに美しすぎた田中いどりとも、あまりにも執着が過ぎた早川美夜子とも違う。非力で無害な平凡な少女だ。けれどもその相手である私を、あろうことか早川美夜子のときと同じように殴り殺したとなれば、今度こそ沢村には正気に戻るまでの道筋は残されていない。接近した沢村の残像は早すぎて見えなかった。見えなくともよい。何度も見てきたから知っている。
 溜めを作った軸足から強く踏み込み、ひねった腰から背筋を伝い、引き延ばされた筋肉が打撃の瞬間に今度はバットを押し込むために収縮する。クリティカルヒットでも走塁はなく、ここは野球規則の範囲外、驚異の強打者は日の目も見ずに、ただ黙々とバットを振り続ける。もたれかかっていた橋の欄干の感触が消えるのがわかった。湯は滔々と流れ続けた。ここは地獄の川のほとり、彼岸に渡る舟もなければ、橋がなくては帰れまい。
 けれどもそれで良かった。私は沢村を鬼にすることができて、大変に満足である。


著者本名:岡田 理恵子
連絡先
 住所:東京都新宿区愛住町二二番地 九階
 メールアドレス:tuyukusa_asita@yahoo.co.jp
作品名:橋のたもとの三人の女 作家名:坂鴨禾火