霊刀之由来
再び訪れたのは小雨の降る宵の口で、持参した砥の面を記念にと石の上で研いだらひいと鳴った。不思議に思って再び研ぐと、やっぱり同じようにひいと泣く。以来、雨の山通いを始めた。
嵐の梢はざわめいているはずだったが虎落を鳴らすほどのものではなかった。聞こえているのは喉笛を切られた末期の息が、血の泡をまき散らしながら息を吸う音だった。石はこの場所にあって初めて泣く。
研ぐのにあわせて刃の先が何かに当たり始めた。石に変化はない。じきに姿を現す、と思いながらごしごしと研ぐ。喉笛を切られているのにもかかわらずしゃくり上げるような悲鳴を上げる幽霊は、刃を当てる位置を変えると悲鳴もまた音を変えた。今日は調子がいいぞと思った。風雨は一向に収まらない。暗闇の中で風向きはくるくる変わって、横から吹き付けたりぱったり凪いでしとしとと落ちてみたり、刃の向きを変えようと必死だ。先の辺りを研ぎ終えたので、刃の向きを変えて研ぎ始めると途端にぶつんと何かに当たった。弾力のある、所々筋の入ってその皮目につっこんだ刃先が回る。刃を研ぐ両腕に金臭い液体がかかったが、血汐か砥汁なのかは判らない。タツを突く度に上がる悲鳴は何度聞いても新鮮なままだ。剣を研ぐ度に何度もこの石の上で幽霊は殺されていて、過去も未来もないらしかった。ただ今、今、今だけがあって、その瞬間を延々と殺され続けている。とうの昔に死んだはずだった。そもそも死んですらいないのかもしれない。夜盗の話は牽強付会で、ただ石が先にあって時たま雨の夜に泣く。そもそも泣くと思うこと自体がまやかしで、その幻覚の中から身重の女が血を流しながら立ち上がっていた。この内蔵を切るような妙な砥の感覚も、突き詰めれば石の産物なのかもしれない。刃を研ぐ。泣き声はいよいよ膏盲に入った。刀を砥から離して、加減を見る間さえ鳴り響く。天を駆けずり回る雷が一瞬地上を照らして雲の中に隠れる間に見えた切っ先の研ぎの具合は上出来、切るための研ぎと見るための研ぎは違うが研ぎ上げた刀は美しく澄んで夜の中に浮かび上がった。
もう一方はどうだろうか。
石の麓に粗く束ねられた黒髪が見えた。何か事情があってのことなのだろうか、難所と名高い峠の道を何もこんな暗い夜の中を行くことはないだろうと思った。腹帯で臨月の腹を気丈に括り上げていたが、やはり腰砕けになったと見えてへなへなと崩れて石にもたれかかっている。青ざめた頬から流れる雨粒に油の浮いた汗が混じって流れる先の胸元に乳房とは違うふくらみがあった。刃長は八寸九厘、身幅はやや広く刃紋はのたれに互の目、見ていないのに目に浮かぶのは刀鑑で見覚えがあったからだ。霊が持つものならば霊剣には違いないだろう、と思って欲しくなる。手を伸ばすと黒髪の下から覗く女の目が見えた。ひゅう、ととぎれとぎれに吐きだす息が遠く聞こえる。
掛川の夜泣き石は夜盗に殺された女の霊がついているが、その夜盗が盗んだ名刀にも女の霊がまとわりついていた。懐から盗まれた短刀が、この石に投げ出された嬰児のたくましくなった手に巡り巡って舞い戻り、日がな死んだ母の話を聞かされていた――憑りつかれていた――その子の手によって見事仇討ちを遂げ、刀は召し上げられ、殿様のものになったというが果たして本当かどうかは判らない。事実、由来は複数あった。肝心なのは名刀か否かではない。欲しいのは幽霊を切れる刀だ。海鼠のときとは刃の切れ味が違うはずだった。家に幽霊はもう出ない。ならば出る所へと赴いて一太刀浴びせなければ切れ味は判らない。盲亀の浮木、優曇華の花、ここにいるのはその幽霊である。茎を握って一閃、腕は毎晩の素振りで鍛えた。無駄なく素早く、振りぬいてこれはと思う。
これでは四百年の前と同じではないか。赤子はいつ産み落としたのか知らなかったがぼとりと生み落とされ、女は切られて、名刀はつかの間失われる。構えなおして突きを見舞いながら懐のうちに刀を探るが、手応えは得られないまま女の体は両断された。返り血が全身を濡らす。幽霊から抜ける血があるとも思えない。石の上に溜まった水が強風に吹き飛ばされただけかもしれない。
けれども切った。霊刀もこの腕の中にある。
*
二十日午前、豪雨による崖崩れにより通行止めになった国道の整理に当たっていた警察官が、全身に血を浴びて歩く男の姿を目撃。声をかけたところ、男は刃物を振りかざしたためその場で取り押さえられた。男が所持していたのは刃渡り約二十五センチほどの日本刀で男自身が研いだものと思われる。男は警察署内で留置されたが、未明に警察官が確認したところ、割腹し絶命しているのが発見された。自殺に用いられたと見られる刃物は発見されておらず、警察は捜査を進めている。
刀と研磨道具一式は、生前交流のあった研師の元に渡った。
「刃はなまくらだが、しっかり切ったな」
前見たときはうぶだったのにと言って包丁研ぎは光にかざした。そうして砥石を眺めると、刀と共に棄てておけと言った。