予知能力としての螺旋階段
これは、三すくみを意識する人たち皆が同じなのだろうと思うのだが、皆はそれぞれをけん制しあって、身動きが取れない膠着状態になっているのだ。
だから、自分たち三人もそうなのだろうと思っているが、実際にはそうではないようだった。
苦手な相手を消し去ってしまうと、自分には、得意な相手しか見えない。しかし、襲い掛かってしまうとどうなるのだろう? 消したはずの自分の苦手な相手が、どこから伴う現れて、自分を襲ってくるように思えてならない。
それが、カプグラ症候群であり、
「自分の得意な相手と苦手な相手が入れ替わっていて、得意な相手に襲い掛かっているのと同じ状況が自分の身に降りかかってくるのだ」
と思う。
つまり、自分と同じ行動を三人が三人とも、得意な相手にすることで、自分の中での三すくみが完成してしまうのだ。
三すくみというのは、膠着状態になるのが最後ではない。どこかで膠着状態が破れて、お互いが攻撃しあって、最後には同士討ちのような形で、皆破滅してしまうのが、三すくみの真の姿ではないかと思うのだった。
そんなことを考えていると、
「お互いが、お互いの中に潜んでいることになる」
という思いが頭に浮かんでくる。
しかも、その感情は、どこかで感じたことがあるのだった。
「ああ、マトリョーシカ人形のようではないか?」
というものだった。
そう、入れ子になった人形が、どんどん小さくなって現れてくるという、あのロシア民芸のマトリョーシカ人形である。
そして、
「限りなくゼロには近づくが、決してゼロになることはない」
という、
「無限小」
のような発想であった。
三人の間にいろいろな発想があり、そこから人間関係が絡んでくる。
そして共通点を感じていると、つかさは、
「自分の予知能力が何のためになるのだろうか?」
と考えるようになった。
自分たち三人がいることが、本当にいいことなのか分からない。これは他の人にも言ることで、
「だから、人生って楽しいんじゃないか?」
という人がいるだろうが、
三人の中の三すくみが、いかに進んでいくか、予知能力がまたしても、湧いてくるような気がしてきた。
このお話の主役は、確か、最初はかえでで、次にちひろになり、そして最後にはつかさになった。
別に主人公が変わったというよりも、話を書いていて、誰に焦点を合わせているのかが分からなくなってきたのだ。
つまり、
「誰の視線から見つめるか?」
というのがミソであり、しかも、それぞれの中に、自分の得意な相手が潜んでいて、それがまるで、
「もう一人の自分のように感じる」
のだから面白い。
一体誰が主人公として話を見ていけばいいのか。
それこそ、
「神のみぞ知る」
というべきなのだろうか?
そもそもの、パラレルワールドの発想と、
「五分前の女」
という発想から始まり、カプグラ症候群や三すくみまで、共通点は探すほどに見つかってくる。
三人が、それぞれに入れ替わるように、お互いに入り込んでいる世界。それを、つかさは、
「予知能力」
として見ているのだろう。
( 完 )
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作品名:予知能力としての螺旋階段 作家名:森本晃次