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そこに彼はいたか

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 彼は昔から時間にうるさいひとで、集合にはきっかり五分前にやってくるようなひとだった。その性質があわさり、そんなに親しくは無かった学生時代に、仲間うちで集合するときは、よく五分前に彼とまず待ち合わせ、待ち人たちが来るまでぽつりぽつりと話したものだった(たとえば、愚痴や、学校のうわさ、すきなもの……、本、ゲームに……すきなひとのこと、など)。その性質は、別れたあともずっとのことだ。彼は、毎朝、ねむるふりをする自分を起こしにやってくる。
 立ち上がると、かばんをひだりに、キーケースを右手にもって、玄関へむかう。そして、装飾の金がはげかけた、細かな傷の目立つドアノブに、手をかけた。その手のうえに、彼の、手が。
(××……、××……、)
 彼が、わたしを呼ぶ。
「はい、どうしましたか」
 うわごとのようなそれに、わたしは、ただ微笑む。
 耳元でかすれるような、ちいさな声がわたしの名前を呼び、その声はかさなって、ああ、ああ、なんて心地のいいひびきだろうか。
(××、××、……もう、いくのか、)
「ええ、もう、時間ですから」
(なあ、もう、)
「ええ、ですから、」
 からだじゅうが、あたたかさにみちていく。彼のからだが、そっと寄り添って、体温を分け与え、わたしたちはこの世界でゆいいつの、ふたりであり、ひとつであり、しあわせであった。
(なあ、もう、)
「……あいして、いますから、」
(××、)
 あまいにおいのするような、彼の吐息と、それから、とろけるようにあまい自分の名前が、鼓膜を、頭をぼんやりとさせて、ただひたすらに、咽喉にからむような、そのあまさを、
「さあ、もう……」
 わたしの苦笑とともにでた言葉に、彼はそっと身を引き、ドアノブをそっとひいて押すと、きりとられた世界から朝の空気が舞い込んでくる。この世界に生きて、ゆいいつ、わたしが彼と彼とのこの朝の逢瀬以外にすきだとおもう、朝のきよらかな酸素が、わたしの肺をみたす。すいこめばちくちくと肺の痛むような、すこし、刺激の強いそれ。
 いってきます。
 口のなかでそう言い、靴をはいたのちそとに踏み入れ、後ろ髪をひかれるおもいで部屋の中を見つめる。そこには、彼が、彼のうすいブラウンのひとみが、わたしを見つめ、すこし名残惜しげに、それでもあきらめたように細められている。
作品名:そこに彼はいたか 作家名:藤沢藤秋