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風のように ~掌編集・今月のイラスト~

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美大では水彩画を専攻した。
 小さい頃から絵が好きだった、もちろん最初はクレヨンで、次に色鉛筆、そして水彩に出会ってすっかり魅了された。
 絵の具を塗り重ねて行く油彩と違い水彩は塗り直しが利かない、画用紙に絵の具を含ませた筆をおいてしまえば後戻りできない。
 その緊張感が好きだった、さぁっと筆を動かして画用紙に色を乗せて行く、その伸びやかな感じが好きだった、そして何より透明感のある色合いが好きだった。
 中学で美術部に入ると油彩をやる仲間が多かったが、僕は水彩を好んで描いた。 
 ただ、絵で食べていけるようになるには油彩の方が近道だ、だれでも小学生、中学生の頃経験している水彩画は、より専門的な感じがする油彩よりどうしても軽く見られがちだ。
 僕もご多聞に漏れず、美大を卒業した程度で画家としてやっていくことは到底できなかった、中学の美術教師の職を得て、教師として仕事をする傍ら作品を描いていた……全く売れなかったが。

 正直、教師の仕事には食い扶持を確保するためだけに就いた。
 美術部の顧問にも任じられたが、美術部に入部しようと考えるような生徒の興味は油彩であって、授業でも習う水彩ではない。
 それなりに指導はしていたが、油彩に関しては通り一遍の知識しかないし自分の作品はと言えば水彩、部員はあまり集まらず各学年に二人いれば良い方、一人もいない学年もあった。
 まあ、そのおかげで自分の作品を描く時間が比較的長くとれたのが救いではあったが……。

 そんな風に画家として独り立ちできないまま七年が過ぎた。
(僕はもう画家にはなれないんじゃないかな……このままじゃ一生教師のままかも……)
 そう思ってしまうことに焦りを感じ、退路を断つために思い切って教師を辞めてしまおうかとも思うのだが、三十近くにもなって親を頼るのは人としてどうかと思う、絵が売れないのであれば収入の道を失うわけにも行かない、僕は悶々とした日々を過ごしていた。

 そんなある日、美術部に入部して来たの新入生がいた、その年一人きりの新入部員だった。
「ええと……やっぱり油彩をやりたいの?」
「いえ、水彩画をやりたいんです」
「へぇ……」
 水彩をやりたいと言って来た生徒は初めてだった、僕はちょっと驚き、美術準備室を訪ねて来た少女をまじまじと見つめた。
 これほどの透明感を持つ少女は初めて見た気がする。
 ほっそりした輪郭に、主張しすぎない程度にすっきり通った鼻筋、ちょっと薄めでピンク色の唇、そしてぱっちりとした瞳……深い湖のようなその瞳に見つめられると吸い込まれてしまいそう……そんな心持がする。
 やや小柄でスレンダーな体つきは幼さを感じさせるが、同時に体温も感じさせない、胸もお尻も女らしくふっくらとしてはいないが、この透明感を目の当たりにすればそれらは不要なものだとさえ思える。
 そして背中にかかる長い黒髪はさらさらとして、ふと部屋に流れ込んだ風にふわりとなびいた……僕には少女が風を呼び込んだようにも思えた。
 不意に現れたこの生き物は『女性』ではない、もちろん『男性』でもない、何か別の性……いや、むしろ『人間』でもないような……ならば『妖精』? いや、それもちょっと違うように思える、僕にとって妖精のイメージはふわふわと宙を漂う生き物、だが目の前の少女は間違いなく実体を備えている、それでいてまるで風と同化しているかのように透明で……。
「あの……入部させていただけますか?」
 僕は少女に見とれ、想像を膨らませてしばらく無言でいたらしい。
「あ……うん、もちろん歓迎するよ」
「ありがとうございます、一年二組の川村沙耶と言います」
 ぺこりと頭を下げると、風が再び髪を揺らした……。

 活動日や活動時間、最低限用意して欲しい画材などの説明を終えると、沙耶は風に乗るように部屋を去って行った。
「ふぅ……」
 僕は思わずため息をついた、どこか緊張していたのかもしれない。
 そして沙耶が視界から消えると同時にイメージがあふれ出して来た。
 机に広げてある描きかけの風景画に目を落とす。
 一面の草原を描いたもので、草を揺らす風を表現したいと筆を進めてきたが、(何かが足りない)と感じていた。
 僕が描きたかったのは『風』そのものだったのだが、画面に広がっているのは『風に揺れる草』でしかない、そう感じていたのだ。
 僕はその描きかけの絵を引き出しにしまうと新しい水彩紙を机に置き、改めて絵筆を握った……。

 出来上がった絵は自分でも満足が行くものであり、とある画商が思いがけない高値で買い上げてくれた。
「この絵からは『風』を感じますね、少し冷たさを感じるくらい爽やかな秋の風を」
 そこまで感じ取ってもらえれば申し分ない、更に画商はこうも付け加えた。
「画面右下に描かれている少女の後ろ姿が効いてますねぇ、彼女の髪がそよぐ様に風を感じますし、小さくですが人物が入ることで人が心地良いと感じる『風』になった気がしますよ、単なる自然現象ではなくね」
 そう、僕が描き加えた少女の後ろ姿、それは沙耶を、と言うよりも彼女のイメージを描いたものだ。
 そして僕はその後も沙耶の後ろ姿を描き入れた風景画を描き続け、それらは僕にとっては高値でコンスタントに売れ続けた。
 美術界に名を知られるように、とまでは行かないが、水彩画愛好家の間では僕の名前も知られるようになり、同時に一つのミステリーも生まれた。
(あの少女は誰?)
 当の沙耶は放課後の美術室で鉛筆を手に石膏像と向き合っているのだが、彼女があの少女であることを知っているのは僕だけだ。
 沙耶はとても素直な生徒で筋も良く、指導するのは楽しい。
 まあ、僕にとっては同じ空間に沙耶を感じ、彼女が身にまとう風を感じることの方がよほど重要だったのだが……。

 沙耶のおかげで絵がコンスタントに売れるようになり、僕は絵一本で充分に暮らしていけるようになった。
 教師は沙耶の卒業と同時に辞した。
 沙耶がいないのであれば、鉛筆や絵筆を握る沙耶の背後に立ってその姿を見られないのであれば、もう教師を続ける理由などなかったからだ。

▽   ▽   ▽   ▽   ▽   ▽   ▽   ▽

「あ……先生」
「お……久しぶりだね」
 それから約一年後、地元の街で沙耶とばったり会った。
 まあ、僕はあいかわらず勤めていた中学の近くにアパートを借りて住んでいたし、沙耶はその学区の生徒だったので偶然と言えば偶然だがあり得ないと言うほどのものではない。
「ええと、この春から高二になったんだよね」
「はい」
 そう言って軽く微笑んだ。
 沙耶はあまり表情を表に出さないタイプ、ちょっと可笑しかったり嬉しかったりする程度なら口角を少し上げる程度だ、はっきりとほほ笑んでくれたのにはちょっと嬉しくなった。
「一人で買い物に?」
「ええ、画材屋さんに」
「ああ、僕もだ、今も描いてるの?」
「高校でも美術部なんですよ、相変わらず水彩で」
「水彩には水彩にしかない良いところがたくさんあるよな」
「はい、わたし、あの透明感が好きなんです」
(透明感っていうのは君自身のことだよ)
 僕はそう思ったが、口に出すのはやめておいた。