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人生×リキュール コアントロー

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ー多分、色で揃えようとした時に当て嵌められなかったんじゃないっすかね
 こんなに喋る子だったのかと、まずそこで感動し、次に、意外と物事を論理的に考えられるんだということに驚いた。いつもの眠たそうな雰囲気が成りを潜め、完全に別人だ。彼との会話を楽しんでいる自分がいた。
 初老のバーテンダーが気を使ってコアントローの瓶を二人の前に置いた。
ーカッコいい!ソフトモヒカンみたい!
ーソフトモヒカンってまた、中途半端で微妙なチョイスっすね
ーソフトモヒカンってちょいワルの感じがするでしょ? この瓶にピッタリじゃない
ーちょいワルってカッコ良いんすか? それにこのボトルデザインは、
ーうるさいなーそんな蘊蓄ばっか捏ねてるから、苦手なカットを克服できないんだよ!
 彼は次の日、ソフトモヒカンにしてきた。
 よく似合ってるじゃんと褒めた彼女に頬を染める姿がなんとも愛らしいと感じたのだ。あの時のリキュール。
「・・・コアントロー」
 呟いて目覚めると、見慣れた白い天井だった。腹痛はなくなっている。横に転じると、泣き出しそうな彼の顔とその後ろに担当医の渋い顔。バレちゃったなぁと彼女は観念した。
「もう、オレ限界だわ」
 二人っきりになり、お互い無言のまま枕元のサイドテーブルに置かれたコアントローを見つめていた時、彼が息を絞り出すような声で呻いた。
「うん。仕方ないよ。こういうことだからさ」
 彼は、笑顔を作ろう彼女に睨むような鋭い視線を突き刺すと病室を出て行った。想像してたより何倍も呆気無かったなぁと彼女は、ベッドの上に乗った自分の手に視線を落とした。手荒れと鋏だこが目立つ汚い手。美容師の手。唯一彼女が誇れるその手に水滴が落ちた。次々と落ちてきた。この手は彼と共に作ってきたのだ。
「・・・ごめんなさい」噛み締めた口を押さえた両手から微かな声と共に嗚咽がこぼれた。
 彼女はそのまま入院となってしまった。
 それから数日。
 遠くから油蝉の声が聞こえ始め、強い紫外線を遮るためにひかれた病室のカーテン越しに、本格的な夏が到来したことを彼女はベッドの中から認識した。
 彼は行方知れずになっているのだと、彼女の事情を彼から知らされて飛んできた店舗マネージャーが知らせてくれた。
 あの人、どこに行ったのかしら?
 日に日に現実との境界線が曖昧になっていく白濁した意識の中、彼女は彼との記憶をゆっくりと反芻していた。
 こうして病に犯されているとわかってくる。彼女の与り知らぬところで、自らの心と体で、死を受け入れるための準備が着々と進んでいるのを。あたしは、死ぬんだわ・・・
 恐怖や絶望に打ち拉がれる過程はとうに過ぎてしまった。生きている時には雁字搦めになっている焦りや心配ごとというのは終焉には必要がないものなのね。あんなに脳内を占領していた諸手続きに関する用事は、こうして身動きが取れない身となれば、知らぬ間に消滅してしまった。それなのに、痛みを耐えている以外の時間には、やたらこの世で生きている幸せが、ほんの小さなできごと、例えばカーテンの隙間から差込む朝の光や小鳥の囀り、談話室で控え目にかかっている「Aria」のピアノの旋律、看護師や掃除婦の優しさや気丈さを垣間見る時などに感じてしまい、涙を流してしまう矛盾が付き纏ってきた。
 自分が生きていた世界は、その世界で生きている命は、こんなにも美しく素晴らしいものだったのかと感動が止まらない。自然と、なにかにつけて、莞爾として笑いながら『ありがとう』と溢れ出すように口にするようになった。
 すっかり抜けて禿た頭だけが気がかりだった。焼け野原のようになった手触りを確かめながら、なくなっちゃったんだわと侘しさを覚える。鏡はとっくに排除した。痩せさらばえて骨と皮だけになっていく自分の顔を直視できる自信がなかったから。目にしてしまったら最後、きっと死と対峙することに怖じ気づいてしまうだろう。
 連日の猛暑日を更に上回る最高気温を記録しているとテレビが騒いでいたある日の午後。
 治療から部屋に戻った彼女の鼻腔を、南フランスの海岸を思わせるオレンジの爽やかな香りがくすぐった。見ると、枕元に保管していたコアントローのキャップが開いている。香りはそこから漂っているらしいのだ。
 誰が開けたのかしらと、うっとりとする香りに誘われた彼女がコアントローに近付くと、カーテン越しの窓際から男が現れた。浮浪者のように伸びっ放しになった髪と髭から、彼だと判別できるまで時間を要したが、間違いなく彼だったのだ。一体どうしたのかと彼女が問い掛けようとする前に、彼は一枚の紙を差し出してきた。
 それは、婚姻届けだった。
「君の口座、会社名義に書き換えた。ご両親の墓前で報告もして、一方的に了承をもらってきた」
 穴が空くほど用紙を見つめながら、痙攣するように震えているだけの彼女に、彼はなおも続けた。
「オレにも、残りの君の人生を、一緒に背負わせてくれよ」
 オレンジの香りが彼女の涙腺を刺激する。その真っ直ぐな眼差しが水中に沈んだ時、彼女の薬指にはプラチナ色の光が輝いていた。


 ※コアントロー
 ホワイトキュラソーの代表格。フランスロワール地方に住んでいた製菓職人のコアントロー兄弟が、1849年にフルーツの蒸留酒を作ったのが製造元となるコアントロー社の始まりと言われる。ハイチのピガラードという品種のビターオレンジとブラジルのベラというスイートオレンジで作られたキュラソーを、三倍辛い「トリプル・セック」と名打って売り出したのが始まりだ。強い甘味が主流だった当時に旋風を巻き起こしたコアントローはたちまち人気になった。独自のノウハウが生きた本品はオレンジの花の甘やかな香りやレモンやライムなどの柑橘系、各種スパイスの隠し味が生きた絶妙な味わいとなっている。
 主にカクテルの材料として使われることが多く、バーの酒棚に並べるべき基本アイテムである。テキーラとライムを使い、グラスの縁につけた塩と共に味わう「マルガリータ」や、ホワイトラムとレモンジュースを合わせた「XYZ」、ウォッカとクランベリージュース、ライムジュースを一緒にシェークする「コスモポリタン」。ジンとレモンジュースの「ホワイト・レディ」やブランデーとホワイトラム、レモンジュースとシェークした「ビトウィーン・ザ・シーツ」ジン、ウォッカ、テキーラ、ホワイトラムにレモンとガムシロップを加え、コーラで割った「ロングアイランドアイスティー」など、一度は耳にしたことがある有名なカクテルに使われている。また、ビターチョコレートとの愛称が良く、製菓材料としても優秀な逸品だ。
 香水瓶をモチーフにデザインされたボトルや、女性への贈り物として喜ばれたオレンジを思わせるエキゾチックなボトルの色、そのオレンジを使ったシンプルで甘さ控え目な無色透明な酒には、社会進出をし始めた当時のフランス女性達へのエールが込められていたのかもしれない。