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手は口ほどにものを云い~掌編集・今月のイラスト~

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僕はデスクに向かう幸恵の後ろから、少し屈むようにしてポンポンと肩を叩いた。
 幸恵とコミュニケーションを取ろうとする時はこうして少しかがむことにしている、立ったままだと何か威圧的になるような気がするのだ。
 幸恵が振り向くと、僕は書類の束に重ねたメモを見せ、片手で拝むようなポーズをとる。
 幸恵は書類にさっと目を通すと片手で胸をなでおろすようなしぐさをして見せた。
 拝むポースは【お願いします】、胸をなでおろすしぐさは【わかりました】。
 簡単な手話だ。
 そう、幸恵は生まれつき耳が聞こえない、従って喋ることも苦手だ。
 読唇術は身に着けているので人がしゃべることはある程度分かるらしいが、昨今のマスク環境の中では意味をなさなくなってしまっている。
 字を読むことは全く問題がなく論理的な思考もちゃんと身に着けているが、人が話している声を聴いたことがないので声に出して喋ることができないのだ。 
 いや、実は少しは喋れる、そういう訓練を受けたことはあるらしい。
 だが、正直言って何を言っているのかよくわからない、「わかりました」と言ったつもりでも「わあいまいあ」のようになってしまう、母音は唇の形で発音するが子音は舌を使うことが多いので難しいのだ、それが恥ずかしいらしく幸恵はほとんど言葉を発しない。
 顔立ちは癖がなく整っていて素直で大人しそうな印象、笑顔を振りまいていればおそらくはかなりモテるだろうと思うのだが、障害を気にしてかいつも少しオドオドした感じ、人に心を開くようなそぶりを見せることもあまりなく、ほとんど喋らないことでそっけない印象を与えてしまう。
 
 幸恵が入社してきてから経理部の人間はあいさつ程度の手話は覚えたが、業務にかかわる指示や報告まではできない、それらは筆談なり書面を使用することになる。
 幸恵に渡したメモには(この伝票を今日中にデータ化してもらえるかな?)と書いた。
 少し分量は多かったが幸恵ならできるだろうと踏んだのだ。
 
 幸恵は障害者雇用枠で採用した。
 ウチはあまり大きな会社ではなく、経理部のメンバーは部長の僕を除いて5人、そのうち2人は派遣社員だから正社員は3人、そのうちの1人が幸恵だ。
 はっきり言ってウチ程度の会社で障害者を雇用する義務を負うのはつらいのだが、幸恵はちゃんと戦力になる、と言うより他より仕事が早いくらいだ。
 雑音に惑わされることがなく作業に集中できる、と言うよりもずっと音のない世界で生きて来ているので自然に集中力が普通より高くなっているらしい。
 会話ができないので営業などはもちろん無理だが、対外的な仕事があまりない経理ならば充分務まる、社内、社外を問わず説明の必要があれば僕がその役を担えば良いだけのこと、幸恵の集中力はそれを補って余りある、今や経理部の戦力として欠かせないくらいだ。

 6時を少し回った頃、幸恵がデスクの前に来てメモを渡して来た。
(ご指示のデータ入力、終わりました、社内メールで転送済です)
「ああ、ありがとう、残業ご苦労様」
 幸恵に聞こえないのはわかっているが、僕はそう言いながら【ありがとう】を手話で伝えると、幸恵は笑みを浮かべて少々大げさなお辞儀をした、言葉を発しない分、幸恵は身振りを大きくして意思を伝えようとするのだ。
 それを見ると僕は思わず頬が緩んでしまう、僕はそんな幸恵のしぐさが可愛らしいと思っているのだ。
 いや、しぐさだけでなく容姿も好みのど真ん中だし、折り目正しい態度、控え目な性格、こまやかな心遣いができるところも好ましく思う……つまりちょっと惚れちゃってるわけだ。
 ただ、まだ20歳の幸恵に対して僕は35歳、独身で離婚歴もないが15歳の年齢差は気になるし、それだけ歳が離れている女性に惹かれることに気恥ずかしさがあり、少しばかり気後れもしている。

 誰にでも心を開くわけではないが、幸恵には親しくしている派遣社員が一人いる。
 それは48歳になる田辺さん、派遣としてウチに来て4年になる。
 彼女には大学4年になる一人娘がいて、高校生の時からボランティア部に所属し大学でもサークル活動で続けているらしい、その関係で彼女も手話に興味を持ちテレビ講座を録画して勉強しているそうで、日常会話から一歩踏み込んだあたりまで手話を使える。
 経理部の社員が挨拶程度の手話ができるのも彼女に教わったおかげ、そして幸恵とプライベートな会話を交わせるのは彼女だけなのだ。
 年齢的にもちょうど幸恵の母親くらいと言うこともあって、幸恵は田辺さんには身の上話などもするらしい。
 一度田辺さんに探りを入れたことはあるのだが。
「彼女、あんまりプライベートなことはおおっぴらにしたくないみたいですよ」
 そう言われてしまってはそれ以上突っ込んで聞くわけにも行かない。
 その状況を打開する方法がひとつある、そう、僕も手話ができるようになればいいのだ。
 実は通信教育の教材を取り寄せて勉強を始めている、まだまだ田辺さんには遠く及ばないが、田辺さんと手話で話しているのをチラチラと眺めているうちに幸恵のことは少しづつわかって来た。

 幸恵はごく普通のサラリーマン家庭に生まれた、幸恵と言う名前は『耳が聞こえなくとも幸せに恵まれるように』と言う両親の願いが込められていること。
耳が聞こえないのは先天性のもので妊娠期間中の病気のせいらしい、母親は病弱で彼女が8歳の時に他界してしまっていて、今は父親と二人暮らしであること。
父親はごく普通のサラリーマンで、貧しくも裕福でもない中流ど真ん中と言った暮らし向きであること。
 そして、僕にとって最も重要な情報。
 異性に対してはちょっとした憧れ程度の経験はあるが恋と呼ぶには程遠かったこと、そしてそれは今も同じだということ。
『今も同じ』と言うのは『憧れ程度の感情を抱いている異性はいる』と言うことなのか、まるで恋の気配もないと言うことなのか、僕の手話能力では良くわからなかった。

 幸恵が入社してから1年後、田辺さんが辞めることになった、旦那さんが地方の関連会社に出向になったのだ。 
 娘さんも社会人となり自活を始めるタイミングでもあり、ついて行くことにしたらしい。
 誰よりも別れを惜しんだのは幸恵、唯一手話で会話できる相手がいなくなるのは寂しいというよりもつらいだろう。
 その田辺さんの送別会で、名残を惜しんでいる幸恵と田辺さんの手話に、僕は割って入った。
【話し相手がいなくなると寂しいだろうが、これからは僕が相手になるよ、まだ田辺さんと同じようには行かないだろうけどね】
 鳩が豆鉄砲を食らった……幸恵の表情はそんな感じだった。
 これまで挨拶程度の手話しか使っていなかったから、意表を突かれたのだろう。
 田辺さんはと言えば、最初は目を丸くしたが、驚きが去るとちょっとニヤリとした……どうも見透かされていたようだ。

 送別会も終わり、小さな花束を添えた記念品を手渡す時、田辺さんに囁くように言われた。
「幸恵ちゃんは部長に憧れてますよ、大事にしてあげてください」
 今度は僕が目を丸くする番だった……。

 それからと言うもの、僕は時折幸恵を夕食に誘った。