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人生×リキュール ディタ

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 振り返ることもなく植物図鑑を脇に抱えた眼鏡男子も角を曲がっていった。それを唖然と見送りながら、だからなんなのよぉと彼女は喉元で痞えてしまった言葉を吐き出す。確かに、おばあちゃんは子ども達には誰にでも優しかった。この学校の子どもなら誰でも一回は必ず話した事がある。彼女は小学校一年生になった時に学校に行くのが嫌で仕方なくて、通学路の電信柱にこっそり隠れて生徒達を見送っていたことがある。その時に、どうしたのぉと優しい声で話しかけてくれたのがおばあちゃんだった。彼女が黙ったままでいると、オリンピック選手が愛用している勇気が出る貴重な飴なんだよと言って黒飴を二つ取り出したのだ。残りが二つしかないから半分こと言って一つ彼女にくれ、もう一つは自分の口に入れる。それから、彼女の背中を何度か優しくさすってくれたのだ。結局、彼女があの飴を食べたのは有名私立中学受験の模試の時。確かに勇気は出たが、試験の結果は散々だった。その時からずっと、ママは苛々している。パパも、最近あんまり帰ってこないし。やっぱ、言うのやめとこう。彼女は踵を返した。


 役所の前に植えられたソメイヨシノの老木が、今年も満開になった。
 いつものポイントに老婆の姿はない。今日は日曜日、役所は閉館している。けれど、新人役人の男子が一人、桜の木の下で佇んでいた。眼鏡を押上げながら見上げる桜は吸い込まれるように美しく、時々吹く風に白い花びらが舞い上がる。彼は一時間前からずっと人を待っていた。けれど、未だ現れる気配はない。
 自分で誘えって言ってたくせにな、と彼は猫の溜め息くらいの小さな息をつくと、歩き出した。指定された場所は、近所の運動公園。ここから五分もかからない。手土産になにを買おうかは決めていた。老婆が何度も口にしていたライチだ。生は取り寄せられなかったので、酒ならばどこにでもあるだろうと高を括って出かけた。ところがなぜか、どこに行ってもライチの酒が売り切れていたのだ。テレビかSNSかなんかで取り上げられてバスってんのか?
 五軒目も空振りで終わった彼が、外に出ると、車イスに乗った老人が居眠り運転をしていた。蛇行して走る車イスを通行人が器用に避けていく。危ないな。そう思った途端、差し掛かった坂道を猛スピードで下り始めた。
「あぁあぁあぁああぁぁー」さすがに目が覚めた老人は、大声を上げながら車イスにしがみついている。
 彼は走った。学生時代にはバレーボールの副キャプテンとして活躍していた彼は、敵陣から打ち込まれるどんな玉でもトスに変えることが得意だったのだ。車イスに追いつくとハンドルを握り、燕のように華麗な動きで百八十度向きを変えた。そのままゆっくりと坂を下り切ると、大丈夫ですかと老人に声をかけた。
「あぁあぁあー助かった!助かったよー!ありがとう!」ありがとうありがとうと拝むように連呼する老人に、大丈夫ですからと無表情で言って立ち去ろうとした。すると、老人は慌てて背後にかかった袋を弄って、一本の瓶を取り出した。
「命の恩人にお礼を!これを受け取っておくれ!人生の出会いの一本を!」
 透明な瓶にディタと明記された赤いラベルが貼られている。ディタって・・・これ、なんの酒だ?
 彼が首を捻っている間に、老人はありがとうと嬉しいを大声で連呼しながら遠ざかっていった。
 まぁいいか。なんだかわからないが酒が手に入ったし、と老婆と待ち合わせしている公園に向かうことにした。
 運動公園が見えてきた。今日は快晴だ。花見する家族も多いのだろう。子ども達の賑やかな声が聞こえてくる。
 また一陣の風が過ぎて桜の枝を揺らしていった。青空に散っていく花びらを眼鏡に映した彼の鼻腔を、どこからか爽やかな果実の香りがくすぐった。


 ※ディタ(SOHO)
 フランスのペルノ・リカール・グループが1980年代後半に開発したライチリキュール。開発にあたり、アメリカ、アジア、ヨーロッパ各地の若者の嗜好やライフスタイルの変化などを始めとした情報をリサーチした。その結果、エキゾチックな東洋をイメージした中国南部原産のライチが注目される。かの楊貴妃も愛した果肉は上品な芳香を持ち、水分も多く、甘味も強い。だが、保存が利かない上に、収穫して二日目には香りが消失するという厄介なフルーツである。また上品な香りはじっくりと味わうと、苔っぽい風味が先立ってしまう。そうしたライチの特性をうまく抑えたディタは、優雅な香りだけを取り出すことに成功したリキュールだ。無色透明なライトタイプの酒は、チャイナローズを思わせる赤いラベルとキャップの可憐な外見をした透明なボトルに詰められ、日本以外ではSOHOという名称で売られている。
 ディタを使った代表的なカクテルとしては、なんといってもグレープフルーツジュースと合わせてブルーキュラソーを垂らした「チャイナ・ブルー」と、そこに桂花陳酒を加えてシェイクした「楊貴妃」だろう。どちらもスッキリとした優雅な飲み口で、初心者でも頼みやすい味となっている。また、ディタの香りを楽しむなら、フルーツジュースやシャンパンなどで割るのもオススメだ。上品なライチの香りを堪能できること請け合いである。原産地華南から長距離を早馬で運ばせたエピソードもあるほど楊貴妃に好まれたライチ。それを手軽に味わえるとは贅沢な限りである。
作品名:人生×リキュール ディタ 作家名:ぬゑ