人生×リキュール パッソア
「合い言葉を忘れないようにね。ガムガム!リリーフ!パッソアー!」きゃはははとリズムをとるような足取りでスニーカーは通用口に消えた。
リリーフ、パッソアってなんかの合い言葉なのかと彼は欠伸を一つした。そこにガムガムが追加された。ガムガム・・・
ガム? ガムって、これのことか? このガムなのか? このガムのことなのか?
一瞬小さな怒りの火が灯って消えた。
このガムとは関係ないことだ。隣はガム工場で、大方、新作のガムでも開発して、それがパッソア味なんだろう。その新作発表が明日で、なにかを打ち上げるとか派手な演出を企画していると。まあ、そんなとこだろう。楽しそうだな。そういえば、先日老人からもらったのもパッソアだった。まだ開けずに置いてあるが、最近、なにかとパッソアが出てくる。なんなんだ一体。どのみちオレには関係ない・・彼は長い長い溜め息をついて、顔を伏せた。
先日の奇妙な一件以来、空からガムが降ってくることはなかった。が、小心者の彼は、トリモチのように強い粘着力のある大量のガムが顔面に張り付いてきて、呼吸困難になる悪夢に何度か襲われるようになってしまった。
恐ろしさに叫びながら飛び起きると朝になっていて、出勤する時間が迫っている。
誰がやったか知らないけど、冗談じゃねーぞ。真面目に働いているだけの善良な人間に不快な思いをさせやがって。
スマホを手に取った。
かつて、教団のテロリスト達がジャックしたのは、当時急速に生活に浸透していた携帯電話の電波だった。
携帯電話から超低周波と高周波を組み合わせた特殊な周波と電気信号を出して、国民の洗脳を試みたのだ。
その結果、各地で事故が多発し、意識がなくなったり具合が悪くなったりする者が続出。
暴動こそ起こらなかったものの、急に暴れたり自制を失う者も少なからず出たらしい。
警察とメディアに追い詰められた教団は、たちまち解体に追い込まれ、彼のぬるま湯に浸かったような他力本願の生活は崩れ去ったー
一部の幹部たちが起こしたこととはいえ、全国民から恨まれ非難の目を向けられるようになった信者達に行き場はなく、元信者だということをひた隠しにして存在自体を消して生きていかねばならない現実が待ち受けていた。
こんな結果になるとわかっていたのなら、愚かな幹部達をなんとしてでも止めたのに。でも、きっと止められなかったけど。過ぎてしまったことをあれこれ言っても無駄なのだが。
困ったのは、面接に漕ぎ着ける度に教団の意図を聞かれることだった。
家族が被害を受けた。
未だ後遺症が残っている。
どうしてくれるんだ。お前達みたいなのがいなければ。
私達の人生を返せ。オマエは罪を償うべきだ。どうしてなにもなかった顔をして普通に生きているんだ。
償え!償え!償え!
残された人生は変革というよりも、贖罪と呼ぶべきだろう。彼は長い溜め息をついて顔をなで上げる。
「・・・ガムガム、リリーフ、パッソア」クラップのような靴音が蘇る。
彼の口から零れたのは、工場の従業員が言っていた合い言葉。
呪文のように何度か唱えてみる。あと数時間後には、自分は這いつくばって潰れて張り付いたガム剥がしに躍起になっているのだろう。やっと手に入れた安定した生活なのだ。手放す気にはならない。だが、クラップは止む気配がない。
『奇襲をかけるって!』
突如、瑞々しい若い声が彼の脳裏に蘇り、それがスイッチだったかのように「Lie To Me」が流れ始める。
彼は激しく頭を振って、枕元に飾ってあるパッソアを掴むと、開封して直接口をつけた。酸味と甘味が濃厚に混ざったフルーツジュースのような液体が彼の味覚を刺激した途端に吹き出しそうになる。これ!
先日空から降ってきたトリモチ状のガムが放っていた甘い匂いが鮮明に香り立ってきた。パッソアだった。
『人生を変革する一本を!』老人の言葉が蘇る。
混乱する彼をよそに、スマホの通知音が鳴り、ニュース速報が画面に踊る。
彼はそれを一瞥するなり、顔色を変えてアパートを飛び出した。
手にはパッソアの瓶を掴んだまま、彼はどこかへ向かって踊るように走っていった。
※パッソア
トロピカル風味の果実、パッションフルーツを使ったリキュール。パッションを「情熱」と解釈する人が多いが、実際はキリスト教でいう「受難」「殉難」という意味である。1610年、スペインの宣教師がパッションフルーツの原産地ブラジルに渡った時、この植物の花を初めて目にして衝撃を受けたという。三叉に別れた雌芯が十字架にかけられたキリストを連想させ、五本ある雄芯はキリストの遺体の五カ所の傷を、花冠の形状はキリストの頭の茨の冠を思わせたのだ。宣教師は思わず跪くと「パッション(殉難)の花」と呼んだそうである。そんな名前の由来を持つパッションフルーツは、ブラジルを始めとして日本でも沖縄や南九州、八丈島などでハウス栽培されるようになった。パッソアはフランスが原産国であるが、ブラジル産のパッションフルーツを主体にレモンジュースを加えて甘くエキゾチックな味に仕上がっている。赤や黄色の南国を思わせる椰子の木がプリントされた艶を抑えたブラックボトルからカラフルなピンク調のリキュールが出てくる意外性と、甘酸っぱく飲み易いフルーティーさから若者を中心に人気を得ているリキュールの一つである。
パッソア初心者なら、まずはオレンジジュースやパイナップルジュース、グレープフルーツジュース、トニックなどの炭酸で割ってみるのがオススメ。ジュースの延長のようなトロピカルさに気分が上がること間違いなしだ。カクテルとして楽しむならば、ウォッカとスプライトで作る「ピンクパッション」や、ラムとオレンジジュースをシェイクした後にパッソアを沈ませる夕焼けのような色をした「香港サンライズ」。パッソアにブランデーと柘榴シロップとレモンジュース、卵白を加えて一緒にシェイクした「ファンファーレ」や、ホワイトラムとライムジュースを加えてシェイクした「パッションストローク」、ウォッカとグレープフルーツを合わせて最後にブルーキュラソーを垂らした朝焼けのような色合いの「グランブルー」など飲み易く多彩なカクテルの種類があるのも魅力だ。
作品名:人生×リキュール パッソア 作家名:ぬゑ