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人生×リキュール シャンボール

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 頭の中で「おまえなんか死ね。死んじまえ」って声が、するの。

 目を開けると、見慣れた白い天井が、見えた。
 繊細な模様をしたレースのカーテンを揺らしているのは、朝の風。
 熱帯夜の底でくだを巻いている悪夢でぐっしょりと濡れた額を軽やかに、撫でていく。
 瞼の裏にこびり付く残像。何度でもフラッシュバックしてくる鮮血が飛び散った様。
 吐気が込み上げるほど強い胸の動悸は、続く。
 意識を現実に引き戻そうとするように、油蝉が間近で鳴き出した。
 求愛という唯一つの目的が込められた生命の声が私の鼓膜を占拠する。力強いな。必死だな。ゆっくりと眼前に手を翳した。それが合図だったかのように、蝉はばっと逃げていく。指を何度か開閉して目元を歪める。
 生身の肉。と、関節。と、神経。と、細胞色々。私はここに、まだ生きている。ようだ。
 強い日差しが、部屋の明度を上げていく。また、新しい一日が始まろうとして、いる。

「この資料、会議用に五十部ほどコピーしといて」
 課長がデスク越しに滑らせてきた資料を手に取ると、昨日頼んだ打ち込みは終わってるかと聞かれた。
「八割型終わっているので、本日中には納品できます」
「そう。いつも仕事が早くて助かるわーどっかの誰かさんとちがってさあー」
 あご髭を撫でる課長が見つめる先は、私の背後で資料整理に奮闘している男性社員、通称トンボさん。
 分厚い丸レンズが昆虫のトンボに似ていることから、そう呼ばれている。
 仕事が遅くミスも多いトンボさんは課長から目の敵にされていた。
「おいおい、それ、一週間前に頼んだ資料整理かあ? まだ終わってねーのかよ。おまえ一人の遅れのせいで、会社全体の業務効率が下がってるって自覚は、どーやら、ねーみたいだなあー」紅蓮の炎を目に宿した課長がトンボさんを睨みつける。
 蛇に睨まれた蛙のごとく、トンボさんは「はぃいぃぃー・・・も、申し訳、あ あり、ありありありありありありま せんー・・・」と、畏縮してイスから転げ落ちた。その様子があまりに滑稽で、固唾を飲んで見守っていた従業員からどっと笑いが起こる。おまえいつから蟻になったんだよ、と課長は笑いを噛み殺しながら近づいて、トンボさんを雑に起こした。
 目を白黒させながら土下座でありあり謝り続けるトンボさんは、なんだか憎めない。多分、全員そう思っている。
 なんだかんだ言われても、愛されてんじゃんと冷ややかな視線を向けていることに気付いた私は自分を嫌悪した。くだらない。
 私が一番、くだらない。
 そんなトンボさんから、声をかけられた。昼休みのことだ。
 私はコンビ二で買った、おいしくもないサンドイッチをちょっとずつ齧っているところだった。
「あの、ありがとうございます。その、この間、あの、手伝っていただいて・・・」
「いえ、礼には及びません。ちょうど暇だっただけなので」気にしないでと手を振って追い払おうとした。
「あの、でも、ボクは助かりました。その、あの、よかったら、その、今度、あの、ご飯でもー」彼の言葉を皆まで言わせず、私は冷酷にいいえと遮り、結構ですと席を立った。関わってこないで。
 唖然と立ち尽くすトンボさんを睨みつけて、自席に戻った。さすがに言い方がキツかったかもしれないと自責の念に駆られたが、戻ってきたトンボさんのオドオドしているコミカルな様子が目に入ると霧散した。私に、関わってくんな。

 週末の退勤後、ビルから一歩踏み出した途端、クーラーで冷えた体が解れていくのを感じる。
 昼間の熱さで、鋭角なラインを溶かされてどろんとしたオフィス街を横切り、帰路につく。
 昇っていく熱気とは裏腹に地表を這い回っているどんよりとしたものは憂鬱。
 きっと今夜もあの悪夢をみるのだ。でも、それが、自分勝手だった私の業だから。
 ー家族なんだから
 鉛を飲み込んだように胸が息苦しくなる。
 まだ夜じゃない。まだ早いよ。
 潰れた蜜柑のような夕陽を眺めながら、徐々に濃くなっていく影から逃げるようにして歩を速める。
 業だと認めた振りをしているだけで、全然受け入れられていない愚かな自分。
 そうまでして生きたいのか?
 おまえなんか死ね。死んじまえ。
 頭の中に響き渡る声。
 あぁ苦しいなぁ。
 私は建物と建物の隙間に入り込む。
 狭くて狭くて動けない隙間に引っ掛かっていると不思議と落ち着くのだ。まるで、強い力で抱きしめられているみたいに。
 私が人との触れ合いを怖いと感じたのは中学生の時。
 片思いしていた憧れの先輩の手に触れた瞬間があった。
 触れた指先から鳥肌が全身に広がって、込み上げてきた吐気を張り過ごした後、わけのわからない恐怖が襲ってきたのだ。
 ガタガタ震える私を見て、先輩は侮辱されたと思ったらしく、それ以来イジメの標的となり、私の接触恐怖症は悪化の一路を辿った。
 社会人になってからも、誰かと付き合う度に手も握れずキスもできないジレンマに苦しみ、理解されないままに別れに至る。それを何度か繰り返しながら二十代を半分過ぎて、やっと人との付き合いを諦めた。
 けれど、寂しくて、時々、なにかに包まれたくなるのだ。それも息が止まるほど強く。一種の自傷行為に近いのかもしれない。
 この隙間を見つけたのは半年前。
 初雪が降った日。
 はしゃいで遠回りをして帰った。どこまでも続く白一色の景色の中で、一際目立つ黒い隙間を見つけた時、なぜか挟まってみたいと思ったのだ。でも、コートが汚れるし、変態ちっくな考えだと躊躇したが、結局実行した。そうせざる負えなかったから。
 雪は振り込んでこなかった。自分の体温だからかほんのり温かさを感じた。
 締め付けられるような感覚。快感。安心。それから、定期的に通っている。自宅からも会社からも適度に離れている上に、人の目につきにくい場所なので使い勝手も抜群だった。
 隙間に挟まりながら目を閉じていると、町の喧騒は遠ざかり、闇が深まっていく気配や葉擦れの音、烏の声が明瞭に感じることができる。そんな様々な現象と一体化になっているような気さえする。
 瞑想に耽っている私の耳を不快に脅かす音がし始めたのは一時間ほど経ってからだ。
 靴底が砂利を踏む不規則な音。近付いているのか遠退いているのか不明な雑音だ。
 目を開けると、少し先に誰かがしゃがんでいるシルエットが確認できた。
 暗くて性別までは判別できないが、どうやら野良猫と遊んでいるようにも威嚇されているようにも見える。その人影が、ふっとこちらに顔を向けた。ようだ。
 暫しの沈黙があった。
「・・・あの、どうしたん、ですか?」
 覚えのある声。トンボさんだった。
 またか。
 私は体をねじって逃げ出そうとしたが、ぴっちりと嵌っているので簡単には抜けない。
 沈黙が再来する。
「・・・あの、もしかして、それ・・・嵌っちゃった、んですか?」
 笑われる。バカにされる。咄嗟にそう恐怖した私は、とにかく逃げ出そうとして体を引き抜く。
 剥き出しの両手両足がコンクリートに擦れて擦傷がつき血が滲んできた。
「あ、あ、あの、待ってください。そんな無理にやったら、痛いだけだ。その、落ち着いて」