小説が読める!投稿できる!小説家(novelist)の小説投稿コミュニティ!

二次創作小説 https://2.novelist.jp/ | 官能小説 https://r18.novelist.jp/
オンライン小説投稿サイト「novelist.jp(ノベリスト・ジェイピー)」

ありたちの秘密

INDEX|2ページ/2ページ|

前のページ
 

――露天風呂はある一点から湯が供給され続けているわけだが、湯面の流れが慌ただしくなって、ある男が入ってきたことに気づく。私の対角線上の位置に座り、どこを見るわけでもないのに、右目だけがしっかりして左目は死んでいる。男の波が落ち着く頃、私の男への関心は消えてしまっていて、私も私でどこを見るわけでもないのにどこかを見ていた。さあ、ちょうど目線の先にあった波模様に迷い葉が降りてきた。そこに植えられている何かの木のものだろう。ジワリと葉脈が侵食されていく。私はなんとなくさっきの蟻が気になって、例の隙間の方を見てみれば、ああ、すぐそこに蟻がいた。触覚がこちらを向いて、私の視線に気づいたようであった。
 その蟻は先ほどの蟻と同じやつ、らしく、先ほどよりは少し警戒が緩そうであった。私は湯の中の左手をゆっくり引き上げて、表面の水をさわさわと落としてから蟻の近くにそっと置いてみた。爪先に前足が乗って、そのまま私の皮膚を伝っていく、いや、伝ってほしい。

(その頃、例の男は私の姿を見ていたらしく、相変わらず死んだ左目は蟻の姿をぼんやりと認識していたらしい。しかしその時の男の精神というものは、新宿の十八階にいる蟻の不思議さ、それに手を差し伸べる私に対して、何ら感情を持たず、ただ、自分の身に蓄積された疲労に似た何かを投げ捨てたいとぼんやりしてしまっている。)

 蟻は私のガタついた爪先に一歩近づいたきり、動かなくなっていた。理由はいくつかあるだろうが、ひとつは指先に残った煙草の匂いだろう。箱根の湯が薄めても、鼻下に添えてみれば微かに煙の香りがする。その奥の、火をつける前のバニラのような煙草葉の香りもまた、抜けきれない。指先への残り香は一五本ほど吸うともう取れなくなってしまう。つまり、そういうことだ。   
私はもうどうすることもできないから、左手を置いたまま、新宿の夜空を眺める。視点がゆっくり下がっているような気がして、ああそのうち、この蟻と並んでこの夜景を眺めることになるのだ。その頃になれば、私の爪先の香りも蟻にうつってしまって、もう気にすることもない。私たちは夜の明るさの理由を確かめ合いながら、確実に迫る朝日の明るさをだんだんに共有していく。それから……。
「そういえば君たちは、バニラは嫌いなのかな。甘いことには変わりないのだが……」
 私が蟻に向けた言葉は、疲労を溶かそうと躍起になっていた男にだけ届いて、何だか微妙な空気が走る。が、私はまだ湯船を抜ける気はない。
 

 空に残っていた雨の残りが振り落とされたらしくて、露天風呂の湯面にぽつぽつとあめんぼの足跡のように映る。しかし、空を見上げても雨が降っているらしい様子はない。本当に、雲の端の方に残っていたものが降りてきたようであった。――時間が進んでいる。
 私は湯船につかったり、足湯のような形をしたりと、その後も露天風呂に居座り続けた。体の温度が変わるたびに、部屋に残してきた「進んでしまう時間」が思い出されて、それがはっきりしだす前に湯船に戻った。体はそろそろ限界であった。
 がらりとガラス戸が開いて、旅館の人間が入ってきた。ちりんと鐘のような、鈴のようなものを鳴らした。あれはもうじき風呂が締まるという意味らしくて、フロントでその話を聞いた記憶が蘇る。(フロントに落ちていたハンカチはまだそのままだろうか)あのフロントマンは新人らしかった。違う階に案内しそうになったり、カードの支払いにもたついたり、女性風呂用のカードキーを渡し忘れていたり。フロントマンの言葉を詳細に覚えているわけではないが、風呂の終わりの鐘、鈴の音だけはしっかり覚えていた。
 確か残り三十分だったか。つまり時刻はもう夜二時に向っている。私はその時、新宿の最終電車がとっくに出発しきっていたことに気が付いて、車庫で始発電車の準備が進む様子が想起された。あれはたぶん大崎駅の車庫だろうけれど、あそこに迷い込んだ子猫の話をしていたのは誰だろう。あれも確かこれくらいの時間、これくらいの季節だった気がする。少しばかり夜が暗かった気もする。
 私はもう一度新宿の夜空を垣間見る。今度は一番右端を選んでみた。(ありの家が一番近いからだっただろうか?)さっと体温が上がり、しばらくすれば湯の温度と同化していく。ピタッと止まったとき、右傍にタオルがあることに気が付いた。それまでの私たちの視界にはいなかったが、これは私が持ってきたものであった。客室に置かれていた状態から、意図的には濡らしていない。端の方を触ってみるが十分乾いていた。
 この白い布地にとことことやってくるはずの、黒い二つの点を確かに夢想している。そのままそっと包み込んで、客室でそっと羽ばたかせて、開けられない窓の向こうを共に眺める。私たちの新宿の夜景に、そのままの海辺が再現される。
 進んでしまう夜に蜃気楼が浮んで、あれもこれもそれもどれも、目に見えない部分もすべて幻に成り代わって、幻の波だけが私たちを包み込むように。何一つ変わらず、変えさせないように。私たちの永遠の時間を限りなく引き伸ばしたい。

 時よ、止まれ。
 僕らはきっと、そうしないと気づけないんだ。

 十八階の露天風呂の隙間には永遠が生きている。あれを持ち出すためには、何を差し出せば良いのだろう。
作品名:ありたちの秘密 作家名:晴(ハル)