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ありたちの秘密

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耳より少し低いところで囁き続ける。あらゆる動くものが私たちの新宿の夜街をゆっくりと進めてしまう。
 雨上がりだから傘を持つ手が多いけれど、皆、もう使わないのにという表情をしている。特に多いのは真新しいビニイル傘。あれの擦れる音もまた、私の酷く弱くなった鼓膜へと届いていく。新宿の音がすっと空中浮遊すれば、ビル風がそれらをさっと巻き上げて、秋の雑木林に似ている。枯れ葉は一枚もいない。ざわつきが辺りを支配している。
 とうとう空とビルの隙間まで巻き上がって、暗がりの新宿の夜空で白く見えた。あの細長いビルの灯りのせいだ。空気中の雨粒もきっと白色を助けている。あれはもうじきどうしようもなくなって、また地面へと戻ってしまう。白く見えている部分と、夜空に溶け込んでしまった部分がはっきりと二分していく。さあ、中央の白い部分はやはり自由落下しだして、十二階辺りで新しいビル風に巻き上げられて、ぐるりと回った。私はそこばかり見てしまっていて、夜空に溶け込んでいた彼らの行方を見失ってしまった。

 地上よりも空に近い所の方が雨の匂いは残りやすい。ある女が何かの気配を察知して新宿の夜空を見上げた。深夜零時二分のことであった。
 過ぎ去った雨雲の切れ端が、四つ残されている。一つは武蔵野の方に向かってさあっと伸び続けている。女はその雲の行方を見ているようで、女の時間にして二秒、目線を進めたところにある雲から地上に向かって真っすぐ垂直に降りていけば、十八階の露天風呂に私たちがいる。
ここに降ったはずの雨の匂いは温泉の湯水が掻き消したが、一つ隣のビルでは濃く残っている。私は傘を持っていない。
 屋上の露天風呂は囲いがしっかりしていて、子供でも抜けることはできない。しかし真っ黒な板で完全に囲っては意味がないことは、ここのオーナーも理解しているようで、均一な間隔で隙間が設けられていた。私と老人が一人、この露天風呂にいるのだが、老人は端の方で目を閉じて湯船の中であった。……四つ設けられていた隙間はどれも空席であった。私は右から二つ目の隙間を選んで、おそらく数分、湯を楽しんでいた。水面から漂う温泉の匂いは静岡の箱根のものらしい。すぐそこの看板に書かれてあった。
 時間の境目がわからなくなり出したころだ。ちょうど湯の温度を感じなくなりはじめる頃だから体は火照っている。首筋に浮き出る一番太い血管がドクンとした。湯からあがらないといけないらしいと感じたそのとき、温泉のせいか、天候のせいか、季節のせいか、一体何のせいなのか、やけに明るい夜空が一瞬真暗になり、赤い灯りが輪郭をぼんやりとさせて横一列に並んだ。
――九州の不知火を思い出しながら、これはいつの記憶だろうと振り返る。目の奥が甘く薄く広がり、すべての新宿の音が海辺のものにすり替わっていく。
 私は時々、どこか遠い所に飛ばされてしまったかのような感覚に陥るときがあって、大抵の場合は仕事の疲れだとか、見知らぬ人だかりに酔ってしまったりだとか、そういう理由なのだが、ごく稀に、その土地に紛れ込んでしまった別の場所のものを感じ取ったためという理由に遭遇する。例えば東京の西側のある川沿いを歩いていた時のことだ。きれいに整えられた遊歩道は褐色に染まっていて、路面温度上昇を防ぐ効果があるという説明板を通り過ぎた時、見たことのない地方の雰囲気を感じた。調べてみれば、その路面舗装に使われた土には、オーストラリアの海砂が含まれていたらしい。輸入の過程でしっかりと洗浄され、オーストラリア固有の成分は取り除かれているため、生態系への影響はないと記事が出ていた。……そんなはずがあるのだろうか。

――さて、二つ目の隙間から新宿の街並みを見ながらこういうことを思い出しているということは、やはりそういうことだったらしく、箱根の温泉の匂いに異質なものが混じっている。真暗な空に浮かんでいた不知火はいなくなり、新宿らしいビルが立ち並ぶ。近寄ればどれも似たような顔をしているのだからたまらない。赤い灯りはビルの航空障害灯となって具現化している。少なくとも十以上の赤灯がビルに設置されていた。
 不知火はどこにもいない。少し強いビル風が立ったらしく、温泉の湯面がさらわれて匂いが一瞬いなくなった。代わりに湯船に使われている名前を知らない木材の香りがやってきて、すぐに箱根の残景に負けてしまった。(おそらくこの木材も箱根のものなのだろう)この時、私の感覚を邪魔するものがいなくなっていたので、あらゆる感覚は鋭敏になっている。ビル風がつくりだした一瞬の空白を数倍に引き伸ばして、そこに隠れていた「異質なもの」の正体がじわりと浮かび上がっていく。

「蟻だ」

 湯の音に掻き消されるように、小さく零した。老人はいつの間にかいなくなっていた。
 私が肘を置いていた湯船の木材の部分。そこの濡れていない場所を選んで一匹の蟻が歩いている。新宿の露天風呂であるから、ここはかなり狭い。誰もいないことを二、三回確認し、蟻の近くに寄った。湯が波立たないようにゆっくり、近づいていく。
「君が不知火を見せたのかい」
 温泉の効能で軽くなった両足が私にこういう言葉を話させている。蟻はもちろん何も言わないが、近くで見ると触覚と前足が動いている。別々の電気信号が走っているように一種不気味さを覚える。私がお湯をぱっとかけてしまえば、蟻はそのまま湯船に浮かんでしまって、もうどうしようもなくなってしまう――だから動かない。ある意味の威嚇だ。ちょっとばかりいたずら心が働いて、蟻に背を向けて湯を掬って顔を洗ってみた。飛沫がそちらにいっただろう? と聞いてみようと思ったが、やはり蟻は逃げ出していた。私はすぐに後を追う。蟻は湯船の木に残る水分を上手いこと避けていく。最短距離ではないが、確実に、私から逃げていく。その歩き方が九州の沢蟹のそれに似ていて、ああ、やっぱりこいつが不知火を連れてきたのかと納得していく。湯が流れていく音なんて、あの九州の小川の音にそっくりじゃないか!
「待ってくれないか。そう急くこともないだろうに」
 私の声はだんだん大きくなってきているようで、蟻は言葉一つずつに反応して先を急いでいく。蟻は言葉がわかるらしかった。
「そうだ。君たちが好きな砂糖醤油をあげよう。部屋に角砂糖があったから、あとは旅館の人に醤油を借りれば良い。どうだい、好きだろう?」
 蟻は答えない。
 蟻は湯船を降りて、囲いの隙間の一際暗い所を歩いていく。この時、私の両目の感覚も優れているので、どんなに暗かろうがピントをしっかり合わせられていた。蟻は先ほどの私のように二、三回周りを気にして、小さな隙間に入ってしまった。ありの家らしかった。落胆か、そういう感情から私は言葉を溢していたが、ここに書けるほどの言葉になっていなかったらしい。独りぼっちになってしまった私は全身の感覚を普段の感じに戻して、ありの家に背を向け、箱根の湯を体に染み込ませていく。
 不知火が忘れられない。ここは新宿だというのに。
作品名:ありたちの秘密 作家名:晴(ハル)