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空墓所から

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2.張り紙



 僕の家の近所にバス停がある。

 近所、といっても一番近い場所、いわゆる最寄りのバス停じゃない。家から徒歩で10分と少しぐらいかかる場所に、そのバス停は肩身が狭そうに存在している。停留所名を示す表示板、時刻表、路線図が掲示された標識板と、その近くにベンチが一基だけ置かれている。それだけの非常に簡素な作り。ちなみに、最寄りではないし、家まで歩いて10分程度ということもあって、僕自身がそのバス停からバスに乗降した記憶はほとんどといっていいほどない。ここに住んでもう長いが、恐らく3、4回ぐらいしかないと記憶している。
 だが、バスそれ自体には乗降しないけれども、僕がこのバス停を通りかかる機会は非常に多い。行きつけの美容院がこのバス停の近くにあったり、日常的に買い物をしているスーパーもこのバス停の横だし、たまにガッツリと食べたくなるときにのれんをくぐるラーメン屋もこのバス停の少し先で営業しているのだ。
 すなわち、本来のバス停の用途としてはほとんど利用しないけれど、周囲によく利用する施設があるのでよく歩いてくる場所、というのが僕のここに対する認識なのだった。

 そんなある日のこと。僕は久々に件のラーメン屋にいこうとしてそこを通りがかった際、そのバス停のすぐ裏にある商店のシャッターに、とある一枚の張り紙を見かけた。

『閉店のお知らせ』

 張り紙の上部中央にはそんな文字が規則正しく並び、少し間を開けてそれよりもやや小さい文字で数行の文章が印字されていた。思わず僕は張り紙に近寄り、その文章を読んでしまう。

『突然のご報告となり恐縮ですが、本店は、来月末日をもって閉店いたします。
 長らくご愛顧いただきまして、誠にありがとうございました。
 つきましては、今までの感謝を込めまして、9月×日からの5日間、
 閉店セールを実施し、大特価でご奉仕させていただきたいと思います。
 お近くにお立ち寄りの際は、ぜひいらっしゃってくだされば幸いです。』

 文章は上記のように認められ、右下に『店長』小さく記されて文面は結ばれていた。

 この文章を読んだときの僕の気持ちを正直に表すと、閉店するのは残念だけど、そもそもなんのお店だったっけ? というものだった。いや、もっと言ってしまえば、そもそもこんなとこにお店なんてあったっけ、というほうが近いやもしれない。そう。それぐらい僕にとって、ここのお店は印象に残らないものだったのだ。
 しかも間の悪いことに、この張り紙の文章ではどういうお店だったかを把握できない。ここの商店が何を取り扱っていたのか分からないのだ。しかも日付から察するに、今はもう閉店セールすらも終了し、お店は閉店してしまっている。ぼんやりと間抜け面で、このお店の前を気にせず歩いていた僕には、ここがなんの店だったか、もう永久に分かることはないのだ。
 とはいっても、そのことをそれほど悲しいと個人的には思わなかった。僕の興味を引くようなお店だったら、ここを通るときにおっと思い、ちょっと入ってみるかとなっていたに違いない。ということは、どちらにしても自分には興味も縁もない店だったということだ。そんな店が僕の気付かぬところで営業して、理由はともかく閉店することになった。結局、それだけの話なんだ。
 僕はそんなふうに考え、足早にラーメン屋への道を歩いた。早く行かないと、毎週木曜日限定のあさりバターみそチャーシューメンがなくなってしまう。僕はシャッターの前から歩き出した数秒後には、その店のことなど頭から追い出してしまい、自分の欲望を最優先にしていたのだった。

 それから、いくつかの季節や年月が通り過ぎた。
 僕が住む街並みも少しずつ変化し、新しくマンションが建てられたり、コンビニエンスストアが増えたりして流動的に動き続けている。そんな中、僕は足繁くという程ではないが、ラーメンを食べに行ったり髪を切りに行ったりするために、あのシャッターの前を相変わらず歩いたり小走りしたりしている。
 でも、あの場所を通り過ぎてしまう度につい足を止めて読みふけってしまうものがある。そう、件の張り紙だ。どうやらあの張り紙の場所はなかなか後に入るお店が決まらないらしく、数年という時を経てもいまだにシャッターは下ろされっぱなしで、その中央の張り紙もそのままになっているのだ。

 僕はここに立ち寄る際、いつも張り紙に目を通すようになっていた。いつだってなんの変わりもない、目を皿のようにして読もうが、新しい情報なんか得られっこない張り紙。時を経て端に少し破れ目ができている、年が変わってしまっているのでもう何年の9月だかすら分からない、そんな張り紙。それを、最初から最後まで最低でも一回は目を通している。それどころか、文章を読む時間を計算に入れて、ちょっと早めに家を出ているくらいだ。
 しかもそれは僕だけじゃない。例えばバスを待っている老人たち。彼らはバスを待っている間、話し相手がいなかったり手持ち無沙汰になったりすると、たいてい真後ろの張り紙に目をやり、老眼鏡の奥で目を凝らしながらその数行の文章を熟読している。例えば子連れのお母さん。子どもを連れてスーパーへ買い物に来た帰り、子どもが張り紙を見て唐突に声を上げる。
「お母さん、この字、なんて読むのー?」
お母さんもどれどれとばかりに文章に目を通す。
「これはね、『ごあいこ』って読むんだよ。みんな、お店に来てくれて、ありがとうねって感じの意味」
「そっかあ、難しいなあ」
「ふふふ。じゃあ、いっぱい勉強しなくちゃねー」
「うん! 僕、勉強するよ」

 彼らだけじゃない。僕を含む、街に住む多くの人々が、数年前から既に理解している閉店のお知らせが書かれた張り紙を、せっせと、せっせとあの場で読みふけっているのだ。ちなみに、上記の老人や母子連れは、つい最近、引っ越してきた方たちじゃない。今まで何度も何度も、この近辺で僕と顔を合わせていて、会釈くらいはする程度に顔見知りだ。それに、いわゆる活字中毒の人でもないだろう。僕はちょっと活字中毒の気があるのだが、彼らを含む街の多くの人がそのような症状を持っているとは考えにくいはずだ。

 だが、よくよく考えると、今のような状態は不思議な状態なのかもしれない。このお店の店長は、お店はうまいことはいかず閉店することになったけれども、意外なところで才能を発揮し、街の人に長く愛される文章を作成したということになるからだ。
 この事実を、今、どこにいらっしゃるのかわからないが、当の店長が知ったらどう思うだろうか。こんなお金にならない場面で才能を発揮してしまったことを悔しがるのだろうか。それとも、どういう形であれ人のお役に立てて良かった、と誇らしく思うのだろうか。

 願わくは、後者であることを祈らんばかりだ。


作品名:空墓所から 作家名:六色塔