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空墓所から

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4.サイトウさん



 20XX年、ある法律が成立した。

 あなたは見たことがないだろうか。もしくは実際にしたことはないだろうか。例えば電話などで、初対面の方にこちらの名前を伝えるとき、

「伊東と申します。東はフジじゃなくてヒガシのほうです」
「澤田です。サワは難しいほうの澤です」

と、わざわざ、面倒そうに説明している人々を。

 その余計なひと手間の解消を目的に作られたその法案は、非常にシンプルだった。

『紛らわしさの解消のため、斎藤、齋藤、齊藤……、これらの名字は全て「斉藤」に統一するよう、指定日までに改姓届を出すこと』

 もちろん、サイトウ以外の姓にもこの問題は根強く存在している。しかし今回は最初ということもあり、試験的な意味合いも兼ね、比較的、有名で種類も多いサイトウ姓が選出されたようだった。

 世論はこの法の成立を、おおむね歓迎した。今の時代、とにかくビジネスはスピードだといきり立つやり手のビジネスマンは、自己紹介や人脈管理が少しでも捗ることにもろ手を上げて賛成したし、名前を覚え間違えたりど忘れしたことがあるうっかりビジネスマンも、書いたり印刷するのがめんどうで紛らわしい名字が統一されることに異議を唱えなかった。当の斉藤さんをのぞくサイトウさんたちも、半数以上がこの法案を受け入れ、施行日の数日前は家裁や役所がにぎわい、改姓手続きをするサイトウさんたちの姿であふれかえっていた。
 一方で、面倒くさいと改姓手続きを行わないサイトウさんもいたり、自身の名字にアイデンティティを持つサイトウさんたちが集まって、反対運動のデモを起こしたり、抗議活動を行ったりといったことも起こっていた。だが、行政は彼らに対し、粘り強く対話をしていくことなどで、最後の一人まで納得できることを目指す、という主張をしていた。

 異変が起きたのは、法律が施行されてから4日後のことだった。

 茨城県水戸市とある家で、齋藤洋司さん(87)が心疾患で亡くなった。遺族は悲しみに暮れながら葬儀の手続きに入ろうとしたとき、医師が一言、ポツリと言った。

「もう、この世に「齋藤」さんはいませんから、死亡診断書は書けません」

 残された者は皆、驚いた。確かに法律が施行されたのは知っている。しかし、余命幾ばくもないため、改姓する暇がなかった老人の診断書も書けないなんて、そんなことがあってたまるか。
 押し問答になったが、医師は書けないの一点張り。しかし、死亡診断書がなければ、火葬や埋葬はもちろん、公共手続きの停止などの処理も行えない。今から改姓手続きを行おうとしても、既に本人が亡くなっているので意思確認のしようもない。遺族たちはなきがらを前にして、ぼうぜんと立ち尽くすしかなかった。

 数日後、上記の事件を嗅ぎつけたある新聞記者が、齋藤さんの孫の一人に取材を試みた。既に腐臭が漂い始めている部屋の中で、おじいちゃんの葬儀をあげることができない悔しさ、おじいちゃんがどんどん腐乱してみにくい姿になっていくあさましさ。このような法を制定した政府への恨みつらみなどを涙ながらに語り、翌日、その記事は紙面に大きく掲載された。

 記事が世に出たことで、民意は齋藤さんの遺族に大きく傾いていく。政府も法の不備を認め、条文を早急に追加することでより良い形にすることを明言する。これで騒動は収束に向かうかと思ったが、そう簡単にはいかなかった。

 状況を整理するとこうなる。政府が法を改めるまでは、亡くなった齋藤洋司さんはもちろん、改姓していないこの世の全てのサイトウさんは存在していないことになっているのだ。ということは、この間、彼ら、彼女らをどうしようと何ら罪に問われることはない、ということになる。

 先日の記事を読んで、そのことに気付いてしまった人間は少なくなかった。そして、その中で、知り合いのサイトウさんに恨みを持つ者や、興味本位で人を殺してみたいと思う者が、実際にサイトウさんを手にかけ始めてしまったのである。

 サイトウさんに恨みを持つものは、通学や通勤の途中など、確実に会える場所でターゲットを待ち伏せた。なんせ、今だけはサイトウさんは人じゃない、獲物だ。白昼堂々、衆人環視の中でサイトウさんをなぶり殺しても、周囲の人はおろか警察官ですら手を出せないのだ。しかも、死亡診断書も書けない。ぶざまなむくろは野ざらしだ。駅、歩道、エレベーターの中……。あちこちに恨みを買っていたサイトウさんの死体がどす黒い血痕とともに捨て置かれ、胸のすくような思いでその場を立ち去っていくリベンジャーたちが後を絶たなかった。

 さらに酸鼻を極めたのが、人を殺めることに興味を持っていた者たちの凶行だった。彼らは、最初、表札の掲げてある家を見て回った。そこに「齊藤」や「斎藤」などと貼り付けてあったならば、その住まいは一瞬のうちに屠殺場と化した。
 あらかたサイトウの表札がかかった家を訪れ終わると、悪魔どもはその足で役所などの施設へと向かう。そこには、人間になろうと手続きをしに来ている人間以下の「もの」が、列をなして大量に並んでいるのだ。狂った死神はその列の最後尾に並んでいる哀れないけにえに刃を突き立てる。まずは致命でない場所に、その後、視覚や聴覚、嗅覚や味覚などの感覚を少しずつ奪いながら、早めに手続きを行わなかったことをこれでもかと後悔させながら、哀れな犠牲者を思う存分、切り刻み、ようやく一つ前に並んでいる次の獲物に牙を向けるのだ。
 列に並ぶ人数が少なくなってくると、そこはもう手続きを終えるのが早いか、殺されるのが早いかという時間との戦いになる。改姓処理を行っている職員たちに、居並ぶサイトウさんから怒号や懇願、哀訴の言葉が次々と投げかけられる。文字通り、生死をかけた言葉たちだ。手続きをもたつきでもしようものなら、やけになったサイトウさんたちに職員のほうが殺されかねない。そんな光景が、血がべっとりとこびりついた各役所で繰り広げられている。それはまさに、地獄絵図の様相としか言いようがなかった。

 結局、国会での審議に四日かかり、数千ほどの犠牲者を出して、ようやくサイトウさんは「人」として認められた。死亡診断書が書かれなかった齋藤洋司さんも、無事、火葬によって天へと還ることができたそうだ。


 なお、修正した法案が可決された際、首相はあくびをかみ殺しながらこうつぶやいたそうだ。

「ワタナベとかワタベ、あそこらへんも、種類が多いんだよなあ」


作品名:空墓所から 作家名:六色塔