空墓所から
「……路子は、大丈夫だろうか」
別に、お好み焼きをひっくり返せなかったことと、妻の容態にはなんの関連性もない。それは分かっている。だが、何かの暗示ではないか、つい、そう考えてしまう。新太郎は胸騒ぎを覚えつつも、どうにかこの不幸なできごとをプラスに、お好み焼きをひっくり返せなかったことをポジティブに受け止めようと、しばしの間、今までの長い人生の記憶を手繰り寄せる作業に没頭した。
「そういえば、昔からお好み焼き、引っくり返すのが苦手だったな」
しばらくして、ようやく気持ちを持ち直せそうな糸口を見つけ出し、思わずひとりごちる。
今までひっくり返し損ねてきたたくさんのお好み焼きが、新太郎の脳内に浮かび上がっては消えていく。それだけじゃない。パンケーキ。これもそうだ、美矢が小さい頃はよく作ったもんだが、あれもうまくひっくり返せたことがない。オムレツ。こいつだって、うまくできたことなんかありゃしない。わが家は料理は当番制なので、父である私もそこそこ料理をしているはずなのに。
そうやって考えると、自分は「引っくり返す」という行為そのものが苦手なんじゃないだろうか、そんなふうに考えてしまう。いつだって、順当、適切、周囲を裏切らない、そんな人間。前評判を「引っくり返す」ような劇的な逆転勝利をした記憶なんか全くない、勉強や仕事だって周囲の評価を「引っくり返す」ほど、大きく成長したことも、下落したこともない。
そんなふうに思い返していると、多分、これからの人生も、何かを「引っくり返す」ことなんかないんだろうなあと、新太郎は崩れたミックス玉の形をできる限り整えながら考えてしまう。多分、何事もなく順当に路子のけがは治り、周囲の期待を裏切らない程度にこれからも自分は出世して、美矢も期待を裏切らない程度の男に嫁ぎ、悩みもあるけど、それなりにのんびりした老後を過ごして、いつか世を去っていく。油断はもちろん禁物だが、何となく、そんなふうに人生が収まりそうな気がしてならない。
もちろん、何かをひっくり返してやりたい、一発逆転を狙いたいという欲望もないわけではない。でも、順当に生きることが困難だった人間もたくさんいる中で、そのような思いを吐露するのは、いささかないものねだりというものかもしれない。「ひっくり返す」ことがない人生。それにだって十分、魅力があるものなのだろうから。
新太郎は、そんなことを考えることで、先ほどの嫌な予感を心中から断ち切った。そして、崩れたミックス玉にソースやマヨネーズなどをかけ、ヘラで切り分けてそのひと切れを箸でつかみ、頬張りながらビールで流し込んだのだった。