空墓所から
37.代理戦争
家でのんびりとくつろいでいたときのこと。
あたたかくのどかな午後の陽光が差し込む中、窓の外に目をやると、飼い猫のテトが庭でなにやらたたずんでいる。このメスの愛猫はわりとおとなしめで、庭から外へ飛び出すということはまずない。それどころか庭に出ることすらめったにないときている。良く言えば深窓のお嬢さま、悪く言ってしまうと片付き先のない引きこもりといった感じの娘だ(まあ、嫁がせる気は毛頭ないが)。
そんな彼女が珍しく庭に出て、そこで何やら立ち尽くしている。暇であることも手伝って彼女の挙動に大いに興味をそそられた私は、すでに見飽きた感のある映画を再生しているブルーレイディスクプレイヤーをそのままに、横になっていたソファから起き上がり、靴脱ぎ石に置かれたつっかけを足先に引っ掛けて、庭へと降り立った。
テトはその真っ白いフサフサの毛並みのしっぽをピンとおっ立てながら、4本の脚を大地に踏ん張って何かをじっと見つめていた。その視線の先はこの家の庭でも特に草深い場所で、私が目を凝らしてみても彼女が目的にしているものの正体はてんでつかむことができなかった。
この数m先の営みを解明するためにはもう少し近づく必要があると感じた私は、そっと自身の足元へと視線を移し、そろそろとすり足で彼女のほうへと前進する。草とつっかけの擦れ合う音がかすかに聞こえるが、なんとかそれを最小限におさえるべく苦心して。幸いにもテトはそれに気づく様子はない。どうやらその何かに相当気を取られているようだ。
ここまで近づけば、彼女が何に興味をひかれているのかが理解できるだろう。そこまで近づいて、それらしい場所に視線を合わせる。その瞬間、驚くべきものが視界に突入してきた。
それは草や葉っぱのそれとは違う、少々異質な緑色で描かれた不規則な円形の連なりだった。糸をかけ違えたできの悪い編物のようなそれらは、一方の端が細くなって途切れ、もう一方はやや太くなった先につぶらな両目を見開き、その先端からピンク色の小さなさすまたのようなものをちろちろと出し入れしていた。
ヘビ。手足のない、かみついてくることで有名なは虫類であるあの生物が、わが家の庭に居座っているのだ。
私はその事実に少なからず動揺した。庭というテリトリー内にこんな強大な力を持つ生物がいるとなれば、一家の主としては捨て置けない。私自身ももちろんのことだが、屋根をともにする妻子やねこがかみつかれてはたまったものではないのだ。
取り乱した神経を落ち着かせるかのように、私はその異形の物体を確認する。ヘビはそれほど詳しくないが、確か緑色の体色を持つものはアオダイショウの可能性が高いと記憶している。毒のあるマムシなどはもっと茶褐色が強い色合いだったという知識がある。だが結局、それは本などで読みかじったであろう知識。専門家でもない私がこの場で種類の判別などできるわけもない。だが目の前の種に関係なく、この家や家族を守らなければならない。私は心を不安に押しつぶされそうになりながら、物置でホコリをかぶっている予備の物干しざおと捕獲用のビニール袋を取りに行こうとした。
きびすを返そうとしたその瞬間、少し先でいちずにその足のない怪物を凝視し、尻尾を立てて威嚇を行っていたわが家の飼い猫が動いた。普段の彼女からは想像もつかない俊敏な動きでそのは虫類へと間合いを一気に詰めると、右前脚を振り下ろし、ペシン、ペシンともたげていた頭部を2回ほど殴りつける。しぐさはかわいらしいが、あの手のひらにはどう猛な爪が立てられているに違いない。その攻撃の刹那、彼女は素早く後方に飛び退り、攻撃前の位置へと華麗に舞い戻った。戻ってからも威嚇は忘れない。今の攻撃があったのかすらも疑われるほどに、ピッタリと元の場所に陣取って、毛としっぽを逆立て相手への威嚇を忘れない。素晴らしいヒットアンドアウェイ攻撃だ。
先手を取られたヘビはそれでも動じず、二股に別れた舌をぺろぺろと出して飛びかかってきた相手を見つめていた。その目はらんらんと輝き、次はない、とでも言いたげに自信を満ちあふれさせながら4本足の獣を視界にしっかりとどめている。
その視線を挑発と受け取ったのか、テトはまたもや動き出す。大きく跳躍してまたもやヘビの真ん前に陣取り、お得意の猫パンチを繰り出そうとする。
だが、ちん入者もこのまま大人しくしているはずがなかった。もたげた頭部を鋭く前に出し、攻撃をかわしつつテトの顔に牙を突き立てようとする。テトはどうにかそれをかわしたもののこの反撃には面食らったようで、今回の彼女の攻撃は空振りに終わり、再び間合いを取って態勢を立て直した。
しばらく緊迫したにらみ合いが続く。おそらく次で決着がつくだろう。傍目で見ている私はもちろん、2匹も心中でそう強く感じているはずだ。私は大切な家族の一員である彼女の身の安全すらも忘れて、この戦いを見届けることに心を奪われていた。
やがてやってくる最後の瞬間。テトはこの害獣にとどめを刺すべく猛然と駆け出し、ヘビは目の前にやってくる白獣をほふるべく口内の牙をさらけ出す。わが家の庭の隅で2匹が交錯し、勝者と敗者を分かつ厳然とした壁がそこに立ちふさがった。
勝利の女神はテトにほほ笑んだ。ヘビは命こそ奪われなかったものの、ほうほうの体でうねうねとあの気持ちの悪いぜん動運動で逃走を始める。勝利した愛猫は敗軍の将にさらなる追撃を行うべくその後を追いかけていく。やがて2匹の姿は見えなくなった。
どうやら、逃げ切ろうと逃げ切れまいとあのヘビを私が退治をする必要はなさそうだ。私はほっと一安心して居間に戻り、もうすっかり再生を終えていたブルーレイディスクをイジェクトボタンを押して取り出した。