空墓所から
40.運
どうも最近、良くないことが立て続けに起こっている。
大きなことで言えば、父が亡くなった。報を受けて急ぎ戻ってきた実家で、父は目をつむり、ひつぎに入った無言の状態で私を出迎えた。別に父とは特に仲が良かったというわけではないし、私も実家を離れているしで、父がいなくなったとて今日明日でいきなり困ることはない。だが、もちろん悲しいできごとではあるし、最も身近な大人の男の存在として父の影響は少なくなかったし、やつれきった母を見るのは非常につらいものがあった。家業は兄が継いでいるのでそちらのほうはそれほど心配はしていないが、それでも何かあった時に相談し、頼ることのできる実家に代替わりが起こったことは、私の心中を少なからず不安にさせる。
それだけではない。その数日後に、交際していた女性とも別れることになった。彼女とはもう2年ほどの付き合いになるが、ここ最近はややマンネリで会う機会も少なくなっていた。その上、私はこのごろ仕事が多忙を極めており、数少ない休日も家に一人でいることが多くなっていた。どうもそれが彼女には気に入らなかったらしく、連絡をよこすたびにいつになったら会えるのか、たまには二人でどこかに行くことはできないのかといったことを話してきた。疲労は孤独でしかいやせないという固い信念を持っていた私は、申し訳ないと思いながらもその要求をのらりくらりとかわし続けることしかできなかった。案の定といえばあまりにも案の定過ぎる展開だが、その結果、彼女から私のスマホへ運ばれてくる文章やワードは次第に険のあるものへと変化していった。これは、そろそろ愛想を尽かされるだろうなという覚悟をしていると、実家から帰ってきてすぐの私に、彼女は大切な話があると切り出してきたのだった。
この2つが良くないことの大きなものということになるが、他にも細かいことはいろいろある。先述したが、仕事が多忙であることも不幸なことの一つといえば一つだし、趣味程度でやるギャンブルに最近大きな当たりがないことも、チクチクとハートを痛めつける。心なしか電化製品もこのところ、壊れまくっている気がするし、おいしいラーメン屋さんに行ってみれば目当てのものが売り切れ。深夜まで残業をした帰り道ではほぼ職務質問を受けるし、たまの休みに張り切って部屋の掃除をしてみれば、たいてい足の小指をどこかにぶつける。
どうもここ最近、振り返ってみると運がないような気がして仕方がない。これはいかんと思い、仕事の帰り、私は終電を待つ駅のホームで運を向上させることはできるだろうかと考えた。しかし、よくよく考えてみるとどうもおかしなことに気づく。そもそも運ってなんなんだろう。
小さい頃から私はテレビゲーム、特にRPGに慣れ親しんできたせいか、運を一種の能力値の一つだと思い込んでいる節がある。人それぞれが固有に運の良さの値を持ち、その高低で次の人生が決まる、運とはそんなものであるという固定観念を持っていた。すなわちそれは、運の良い人は運の良い人生を行き続けるということを意味している。すべての選択がうまく行き、こんな言い方は失礼かもしれないが、その人の能力以上の希望に満ちあふれた人生を生きていくのだろうと思っていた。反対に運の悪い人は、高い能力を持ちつつもたいていの場面で貧乏くじを引き続けなければならない。人生とはそんなふうにできているもんだと漠然と思っていたのだ。
しかし、振り返ってみると私はここまでの人生、特に運が悪かったとは思っていない。まあ、運が良かったとも思っていないが。少なくとも、これはついてないなあと記憶に残るほど強烈に思ったことは物心がついたときから一度もない。
仮に運が能力値で表されるシステムだとしたら、ここ最近で私は運をガッツリと失うような呪いの装備を新たに身に着けたとしか思えない。だが、多忙故に新しい衣服などは購入していないし、冷え切った関係の彼女から何かをもらうことはなかった。そう考えるとやはり、現実世界では運は能力値になってはいないのだ。
そうなってくると、現実世界における運とはなんなのか。いわゆる運気だとかそういったスピリチュアルな方面に行きたくなってしまう。だが、信奉派の方には申し訳ないが、こちらもなんとなく違う気がする。
と、ここまで考えてふと気づく。もし、私の運が良かったとしたら父の死は防げたのだろうか。仮に今回、防ぐことができても年齢を考えれば、迎えが来る順番は私よりも父が先であることはほぼ確実だ。いつそれがやって来るのかというだけなのだ。彼女との別れについてもそうかもしれない。なまじ夫婦になっていたり子供ができてから私の孤独癖が発覚していたら、もっと悲惨な別離が待っていたかもしれない。その他の小さな不幸についても、ギャンブルの勝敗なんてこれほど水物なものはないし、電化製品は一人暮らしを始める時に一斉に買いそろえたので、壊れる時期が近いのも納得がいく。食べたいものがなかったのも職務質問も、世間の人がしっかりと仕事をこなしている証左だし、ぶつけた足の小指が痛いのも私が立派に生きている証拠だ。
結局のところ、運とは単なる気の持ちようなんじゃないのか。そう思った瞬間、やってきた終電車に酔客が巻き込まれる。飛び散る血しぶき、肉塊。いかに運は気の持ちようとはいえ、あんな死は許容できそうにない。
私は悲惨な光景を目にしてしまったことと、家に帰り着くために多額のタクシー代がかかることを運のせいにしようとしたが、これも単なる気の持ちようだと振り切って、改札を出てタクシー乗り場へ向かった。