八人の住人
17話 言葉を持たない恐怖
こんばんは、五樹です。今日は、時子が起きているのを不安がって、日中に睡眠導入剤を飲んでしまったので、僕は夜中起きている事になるでしょう。
それでは、カウンセリングであった、良い事を話しましょうか。それは、「言葉に出来ない恐怖」についての話です。
時子は、この間のカウンセリングで、初めにカウンセラーと長く話していました。それから、その話の終わりに、こう言ったのです。
「そんなの、怖いですよ、不安だし…」
そう言って、時子は座っている椅子の中で体を縮こまらせて目を閉じ、怖がるような素振りを見せました。残念ながら、何の話をしていたのかは、僕は忘れてしまいました。
その時、カウンセラーはそれに酷く驚いたような顔をしたのです。
「怖いんですか?じゃあ、“怖いな”と思うと、体のどこに、どんな感じがしますか?」
カウンセラーは、身体の反応を重視します。時子はこう答えました。
「お腹の…芯が、痛いです」
それを聞いてカウンセラーは何かを心得たのか、すぐに時子に、カウンセリングルームのベッドに寝そべるように言いました。
施術が終わった後で、やはりカウンセラーはこう言いました。
「それにしても、“不安で、怖い”なんて、そんなネガティヴな言葉をここで時子さんが言ったのは初めてです。しかも、体を傾けて身振りでも表現するなんて。だから、びっくりしました」
「えっ…そうでしたか?」
「ええ。初めてです。そうでしたよね?」
カウンセラーは、部屋の隅に座った、時子の夫を見ます。夫は頷きました。
「ほんとですか?なんか、毎回同じような事、言ってませんでしたか?」
「言ってません。初めてでしたよ。だから、だんだん言葉に出来るようになったって事です。今まで全然見えていなかった物が、見えてきたんです」
「はあ…そうですか…」
時子はあまり釈然としていないようでしたが、それも仕方ないとは思います。
多分、彼女が「毎回言っていたような気がする」と言ったのは、カウンセリングが毎回怖かったからでしょう。過去の辛い記憶を思い出す為に、そこに来るのですから。
それに、カウンセラーと二人きりになるのが怖くて、夫に同じ部屋に居てもらっているのですから、その事は明白です。
でも、人は、不安に感じていたり、怖かったりしても、それに気づかない状態があります。カウンセラーはその状態をいつも“凍りつき”と呼んでいます。
要は、恐怖や不安に対して無抵抗となり、戦おうとも逃げようともしない時。例えば、虐待を受けている児童、家庭内暴力の只中にある夫人、いじめを受けている子供、など…。
真っ只中にあり、少しでも自分の傷が浅くないと生きてもいけない時、人は自分が傷ついている事が見えなくなります。それがその時の、生きる手段です。
そういう状態が強く心身に刻み込まれ、今は暴力を受けてもいないのに萎縮し続けて辛いという症状が、“PTSD”です。
「今日は物凄い前進でしたね!“怖い”ってちゃんと言えたし、身振りでも表現出来たじゃないですか!凄いわ!」
これと同じ事が、今晩起きました。