Blackmark
内側のガードレールと対面するような、急な角度のドリフト走行。ワインレッドのS14後期型で、この近所によく現れる常連の一人。吊り目のヘッドライトを見送ったギャラリーがお互いの顔を見合わせて、何人かが動画に収めるためにスマートフォンを掲げたまま追いかけた。ドライバーの腕前を知っている常連は、缶コーヒーを片手に自分の車の前で語り合っている。
夜中一時。地響きするようなエンジン音とタイヤのスキール音は、定期的にやってくる。目当ては、この緩やかな右コーナー。はるか遠くに、要塞のようなショッピングセンターが陽炎のように建つだけの、殺風景な埋立地。緩やかに周回する片側二車線の道路は道幅が広く、分離帯はない。そして夜の十一時に近くの倉庫が閉まると、車の通行はほとんどゼロ。ガードレールはイン側にしかなく、ほとんどのギャラリーはそちらへ集まる。
派手に走りたい人間は、今のシルビアのように手前側で豪快にドリフトさせるが、タイムを競う場合は全く別物。本当の難しさは、中速コーナーから高速コーナーへと変わる、そのレイアウトの複雑さにある。つまり、車体を最大限寄せるべきポイントは見た目よりさらに先にあって、その時点ではアクセルを全開にしていないといけない。死と隣り合わせの度胸試しに成功したら、もちろんご褒美がある。それは、両脇に立ち並ぶ街路樹。ナトリウム灯に照らされる紅葉は燃えるように明るく、高速で走り抜けると真っ赤なトンネルをくぐったような錯覚に陥る。それは、ドリフト走行で車を傾けている連中が逆立ちしても見られない景色だ。
スピードを求める以外に選択肢がなかった昔は、このコーナーの手前からタイムを計って、コーナーを抜けた先にゴールラインを作っていた。当時、仲間内では福川のセリカダブルエックスが最も速かった。命知らずで、コーナーの中ではぎくしゃくしているが、抜けるときのスピードは時速百キロ近く。馬力任せの走り方をどこか馬鹿にしながら、いかに失速することなくコーナーの脱出速度を上げるかということばかり考えていたのは、すでに骨董品扱いされていた後輪駆動のジェミニに乗っていた知念と、ワンダーシビックをフルローンで買った矢野。そして、白のランサーターボに乗っていたおれ。峠の頂上で撮った記念写真には、全員が二十歳だったころの記憶が居場所を求めるように詰め込まれている。全てが、三十年以上前の話。おれが今年で五十六歳になるのだから、大昔だ。
蘊蓄混じりの記憶を自動再生のように垂れ流しながら、ギャラリー達の若い顔をぼんやりと見つめていると、気づくことがある。今のギャラリーたちはだいたい、二十代半ば。おれが現役だったころより、少しだけ高齢化している。
ランサーターボは、一年も経たない内に全損した。福川のセリカは盗難に遭い、知念のジェミニは故障で引退。あの集合写真から一年も経たない内に、矢野のシビック以外が代替わりした。車は、金も時間もかかる趣味だ。バイト代のほとんどを溶かしていたし、車がない時間というのは一切耐えられなかった。
だから翌年の峠では、矢野のシビックの隣には福川のソアラ、知念のスタリオンが並び、おれは車がない生活に耐えられず、かといって金をためるだけの時間もなかったから、知り合いからタダで貰ったスバルレックスに乗っていた。理由は単純。福川と知念は実家が金持ちで車は『小遣い』の一部だったが、おれは状況が違った。ただそれだけのことだ。峠での記念撮影はそれが最後で、大学を出た後は、福川と知念の付き合いは途絶えた。矢野はおれと同じ地元密着型で、三十半ばでサラリーマンを辞めた後は、スーパーマーケットを経営している。おれは自治会の執行役員をしているから、矢野の『事業』をできる限り守っているつもりだ。会社では、誰からも夏川さんと呼ばれるようなって随分経った。仕事は定年の店仕舞いに向けて、徐々に引き継いでいる。
砲弾マフラーで増幅された直列エンジンの音が聞こえてきて、おれはすぐ中へ戻ろうとする意識を外へ引っ張り出した。白のローレルはうまく進入が決まらず、ぎこちなく車体を揺らせながら通り過ぎていき、それを見送ったギャラリーが自分事のように肩を落とした。
「やっぱ、あのシルビアの人凄いねんな。中で手え振っとったもんなあ」
フィットRSのドアにもたれかかる学生が熱っぽく言い、まだ車を持っていないらしい友達が、愛想笑いを浮かべながらうなずいた。深夜のドライブに付き合わされただけで、実際には興味がないのかもしれない。それから三十分が過ぎてギャラリーが半分ほどになり、フィットRSの学生が寒さに負けて車内に入り込んだとき、遠くで甲高いロータリーエンジンの音が鳴り、おれは耳を澄ませた。ほとんど改造していないマフラーの音。ギアを落とす時のエンジン音が二回高くなり、直線を四速で走っていたということが分かった。おそらく、二速でコーナーに入ってくる。おれがそこまで考えたとき、年寄りの思考スピードを馬鹿にするようなスピードで黒の最終型RX-7が飛び込んできて、ノーズを沈めながらアウト側ぎりぎりまで膨らむとインへ寄って、目の前のガードレールすれすれを抜けていった。音からすると、コーナーの途中でクラッチを蹴って三速に上げ、最後はアクセル全開で抜けた。命知らずだ。フィットRSから出てきた二人が、今通った車が何者か、その答えを求めるようにおれの方を見た。おれは愛想笑いを返しながら言った。
「派手やないけど、ああいう連中が一番上手いよ」
タイヤから白煙を上がるのは派手で格好いいが、速くはない。目的がそもそも違うから、どちらが正しいということはないが。少なくともおれが現役だったころは、ドリフト走行で白煙を上げながら、交通ルールを守ってコーナーを抜けた方が速いような低速で抜けていく連中を馬鹿にしていた。いかにスピードを温存するかが鍵で、タイヤから煙が上がったらそれは失敗を意味する。流行りは移り変わるが、三十年経っても車の動きは同じだ。だから、時々ああやって、昔ながらの硬派な走り方をする人間が現れる。おれがまだ耳を澄ませていると、ロータリーエンジンの音が一周して、今度はギャラリーが車を停めている方へ入って来ると、フィットRSから少し離れたところでハザードを焚いた。運転席から降りてきた男は若く、二十代前半。所在なさげで、もしかしたらさっきの走りは挨拶代わりだったのかもしれない。半分以上が帰った後だからギャラリーはまばらだが、黒のRX-7の周りには少しだけ人が集まり始めていた。
「こんばんは」
おれが声をかけると、RX-7の若者は小さく頭を下げた。
「うす……、ギャラリーコーナーってネットで見たんすけど、あまりいてないっすね」
「あと三十分早かったら、この倍はおったよ」
愛想笑いを浮かべながら言うと、若者はおれの後ろに停まる車に目を向けた。
「買い物用よ」
おれはそう言って、ボンネットに手を置いたまま笑った。ダイハツのトコットで、去年買ったばかりだ。走り屋に混ざりそうな車ではない。
「昔、こうやって走っとったからね。たまに見に来てる」
続けて言うと、若者はようやくおれの車選びのセンスに納得したように、笑顔を見せた。